ランボルギーニの屋台骨を支えたディアブロ
スーパーカーの一方の雄、ランボルギーニ。V8エンジンを搭載した“ベイビー・ランボ”も充分に魅力的なのですが、やはりV12を搭載したフラッグシップ・シリーズには凛とした品格が漂っています。なかでもカウンタックから後継のディアブロへと続く流れは、まさにスーパーカーが最高に輝いていた時代、スーパーカー中のスーパーカーと位置付けられています。今回はそのうち後半を担当したディアブロを振り返ります。
V12を前後逆転縦置きマウントというパッケージはカウンタックから継承
ランボルギーニのトップレンジで、初めてV12をミッドシップに搭載したのは1966 年にリリースされたミウラでした。ただしミウラはエンジンが横置きで、スペース効率的にはメリットのあるパッケージでした。重量配分的には厳しい面があり、またシフトリンケージの設計にも苦労の跡が窺えました。
そこで後継となる1974年にリリースされたカウンタックでは、エンジンが縦置きに変更されていました。しかも前後を逆転させてパワーの取出しはクルマの進行方向で前方になり、ミッションはキャビンに張り出す格好となっていました。
もちろんこれで前後重量配分はずいぶん好転していました。さらにそのカウンタックの後継モデルとして1992年に登場したモデルがディアブロ。V12エンジンを、前後逆にして縦置き搭載するパッケージングはカウンタックから踏襲されていました。
闘牛に関連した言葉を車名に使用するのはランボルギーニの一連のモデルと同様でしたが、何とディアブロとは“悪魔”を意味するネーミングでした。デザイン的にはベルトーネのチーフデザイナーだったマルチェロ・ガンディーニが手掛けていましたが、曲面を多用したミウラから、カウンタックは平面的でエッジを効かせたデザインテイストに一新されたのです。
カウンタックからディアブロへは少し抑揚が強調されていますが、エッジが効いている点では正常進化と見るのが一般的です。しかし、カウンタックをデザインした当時はベルトーネに在籍していたガンディーニですが、1979年に独立、以後はフリーランス(独立から5年間はルノーと独占契約を交わしていましたが)として活動しています。つまりディアブロは、ベルトーネのチーフデザイナーとしてではなくフリーランスのデザイナーとして関わっていたのです。
もうひとつ、カウンタックがディアブロと違っていたのはランボルギーニの経営状況でした。アウトモービリ・ランボルギーニは、1962年にトラクターメーカー、ランボルギーニ・トラットリーチの子会社として設立されていました。1971年にはその親会社のランボルギーニ・トラットリーチが資金難となり、全株式をフィアットに売却。
アウトモービリ・ランボルギーニも株式の51%をスイス人投資家に売却されています。さらに1974年には残る49%の株式を売却し、経営権はフェルッチオ・ランボルギーニの手を離れました。そして1978年にはイタリア政府の管理下に置かれることになりました。
1981年にはフランス人実業家に売却されましたが、1987年にはクライスラー傘下となるなど、経営権が二転三転しています。そんな状況下で誕生したディアブロは、ガンディーニがデザインを手掛けたとしていますが、じつはガンディーニのデザインしたProject 132“Kanto”をベースに開発され、しかもそこにランボルギーニを傘下に収めたクライスラーのデザイナーが手を加えて出来上がったものでした。
勝手にデザインに手を加えられたことで、ガンディーニ・サイドでは自らのデザインとするべきか悩んだとも伝えられています。また、やはりガンディーニが手掛けたチゼータV16Tが、本来クライスラーに提案したデザインだったのでは、との噂も聞かれます。
確かにガンディーニらしさは共通していますが、本当のところはどうだったのでしょう。ランボルギーニの経営権はその後も三転四転しますが、その間もランボルギーニの屋台骨を支えたディアブロは、2001年登場のムルシエラゴに後継を託すことになります。
フェラーリを大きく凌ぐパフォーマンス
カウンタックと同様のパッケージングを採用したディアブロ。ホイールベースは2650mmでカウンタックに比べ150mm延長されており、キャビンの居住性も向上していました。フレームは、これもカウンタックと同様に鋼管を組み合わせたチューブラースペースフレームで、前後にコイルで吊ったダブルウィッシュボーン式サスペンションを組み込んだのもカウンタックと同様でした。
搭載されたエンジンは、5709ccのV12ツインカム(4本カム)48バルブで最高出力は492psでした。これはカウンタックのホットモデル、フェラーリのテスタロッサに対抗すべく1985年に投入された5000QV(Quatro Valvore=4バルブ、つまりは48バルブのV12)の5167cc/455psを大きく上まわるものでした。
しかしディアブロのパワーユニットは、さらに強化されることになりました。1990年代の終わりに経営権がアウディに移ると、開発が進められ5992ccにまで排気量を拡大。最高出力は遂に500psの大台に達していました。
1993年には4輪駆動システムを組み込んだVTが登場。1995年にはロードスターモデルも追加されていました。またモデルライフの終盤となった1999年にはレーシング仕様のGT2をロードゴーイングにコンバートしたGTが登場。
フロントのトレッドを110mm拡大し、左右に突き出したタイヤを収めるためにブリスターフェンダーが装着されていました。公式的にそれを証明する資料は手元にないのですが、開発にはロードレースやラリーで活躍したサンドロ・ムナーリが関わっていたようです。
初期モデルではリトラクタブル式ヘッドライトを採用していましたが、各国の法規が変わっていくのに合わせて、1999年のマイナーチェンジでは日産フェアレディZ(Z32)用のヘッドライトを採用し、固定式に変更しています。日本のユーザーが改造していたのをヒントにして変更されたのは、有名なエピソードです。
国内レースではJGTCで活躍
多くのモデルがレース用に仕立てられたのも、ディアブロの大きな特徴でした。1994年には全日本GT選手権(JGTC。現SUPER GTの前身)に参戦するJLOCチームのためにイオタ(JOTA)と呼ばれる初のレース仕様が3台製作されました。
実際に1995~1996年シーズンのJGTCに参戦していました。JLOCにはその後も、ディアブロGT-1やディアブロJGT-1などいくつものレース仕様が届けられています。もちろん、カップカー用のGTRや、それをベースにFIA GT選手権に向けてワークスカーを手掛けてきたレーススペシャリスト、ライター・エンジニアリングでGTR-Sが製作されたこともありました。
当時はGT1/GT500クラスへの参戦でライバルが強力でしたから、なかなか好成績を上げることはできませんでしたが、ディアブロGT1に車両変更して2シーズン目となった98年には仙台ハイランドで9位、ツインリンクもてぎで10位と2度の入賞を果たしています。