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神々しさに思わず柏手打ちたくなる! 街で見かけたら幸運間違いナシの「国宝級」旧車5選

トヨタ・スポーツ800のフロントスタイル

極めて流通量が少ない幻レベルの国産旧車を振り返る

 国際情勢が不安定だが相変わらず旧車が人気だ。数年前までタダ同然だったクルマまでビックリするような高価格で取り引きされているが、そのような活況下においても流通数が極めて少ない“国宝級の旧車”というモノが存在している。

 それらの旧車が国宝級となった理由はさまざまだが、具体的に列記すると生産台数が非常に少ないので「幻の名車となっている」「王道を外している」「乗用車の生産から撤退したメーカーのクルマである」「世界的デザイナーの作品」「効率を度外視したハンドメイド」といったようなことが要因となっている。そこで、筆者の独断と偏見で自動車世界遺産として認定したい国宝級の旧車5台をピックアップしてみたので、ご覧いただこう。

国宝級の国産旧車01:初代日産シルビア

 まずは、日産初のパーソナルクーペとして1965~1968年まで発売された初代シルビア(CSP311型)だ。SP310型フェアレディのシャーシにエレガントな2シータークーペボディを架装したスペシャルティカーであったシルビアは、クリスプカットと呼ばれるシャープなデザインを採用。優雅なデザインを際立たせるため、継ぎ目をできるだけ少なくできるボディパネルが使われていた。

 そのスタイリングは、ドイツ人デザイナーであるアルブレヒト・フォン・ゲルツ(日産の2シータースポーツクーペ製作のコンサルティング業務を引き受けていた。BMW507を手がけたことでも知られる)のアドバイスを受け、日産がまとめたもの。何度か来日していたと言われるゲルツがデザインした日産の試作車は、まず1964年の第11回東京モーターショーにおいてダットサン・クーペ1500という名で展示され、これにSP310型フェアレディ1600用の1595㏄エンジンを搭載し、1965年4月に「シルビア」として発売されたのであった。

 ちなみに、CSP311型シルビアのサスペンションは、フロントがダブルウィッシュボーン、リヤが縦置き半楕円リーフで、ブレーキはフロントがディスク、リヤがドラムとなる。SP310型フェアレディ1600はフロントもドラムブレーキだったので、シルビアはより走行性能がアップしていたと言える。

 また、フルトリムで構成され、凝った意匠を採用していた豪華なインテリアも、初代シルビアを語る際に忘れることができないポイントだった。当時の技術では、この内装のすべての部分を機械で組み立てるのが難しく、職人がセミハンドメイドで仕上げを行っていた。そう、このスペシャルティカーは量産車ではなく、工芸品に近いクルマだったので、いまとなっては国宝級の旧車なのだ。

 ちなみにセドリックよりも高い120万円という価格で販売されたことが災いし、1968年6月までに554台が生産されるにとどまったシルビアは一代限りとなることが予想されたが、日産は1975年になってセミハンドメイドで仕上げられていたスペシャルティカーの名を復活させた。このときに登場した2代目シルビア(S10型)も残存数の少なさから国宝級の旧車だと言えるので、ギリシャ神話に登場する美しく清楚な乙女の名前を持つ日産のクーペは、当初販売面で大苦戦していたのであった。

国宝級の国産旧車02:いすゞ117クーペ

 続いて紹介するのは、歴代国産車のなかでもっとも美しいクーペのひとつだと言える「いすゞ117クーペ」だ。この117クーペは1968年12月に発売され、1981年まで“いすゞ製乗用車”のフラッグシップとして継続生産された。デザインを手がけたのはかの有名なジョルジェット・ジウジアーロである。もうそれだけで国宝級の旧車だといえるが、1973年まで造られた初期モデルの2458台がハンドメイドだったことも胸熱ポイントとなっている。月産30~50台ペースという少量生産だったこともあり、発売後10年間に廃車となった117クーペが一台もなかった、登録台数の98%が現役だったと言われている。

 いすゞが自社ブランドの認知度を上げるためにスペシャルティカーの開発を決め、イタリアのカロッツェリア・ギアにデザインを依頼したのは’60年代中盤のことだった。当時、ギアにはベルトーネから移籍してきたジョルジェット・ジウジアーロがいて、いすゞからのオーダーはチーフデザイナーとしてバリバリ活躍していた彼がプロジェクトを統括することだった。

 そのジウジアーロは1966年のジュネーブショーに向けていすゞのプロジェクトを進め、いすゞギア117スポルトを完成させた。その美しいクーペスタイルは高く評価され、この年のショーにおけるコンクール・デレガンスを獲得。プロポーションがよく似ているといわれるベルトーネ・デザインのフィアット・ディーノクーペがデビューしたのは1967年だったので、117スポルトが登場してから一年後のことだった。

 117スポルトの“いすゞにおける生産型”であった117クーペは、ジウジアーロのデザインとコンセプトを内外装とも再現していたが、それ故に生産化に苦労し、ディーノクーペのほうが先に登場してしまったのであった。

国宝級の国産旧車03:日野コンテッサ1300

 現在、いすゞ自動車と同じように日野自動車も乗用車を生産していないが、往時に日野が造っていたコンテッサも国宝級の旧車だといえる名車中の名車だ。日野自動車がフランスのルノーと提携し、4CVの国内組み立てを開始したのは1953年のことだった。このライセンス生産で培った技術とノウハウを活かし、自社開発して1961年に発売したのがコンテッサ900である。

 コンテッサ900はリヤエンジン車であった4CVの流れを汲んだ4ドア5シーターのRRセダンで、ルノー譲りのウィッシュボーン/コイル(フロント)、スイングアクスル/コイル(リヤ)という全輪独立懸架方式のサスペンションを採用していた。

 1964年にコンテッサは上級クラスのマーケットを狙うためにフルモデルチェンジを行い、イタリアのカーデザイナーであるジョヴァンニ・ミケロッティがデザインを手がけた4ドアセダンのコンテッサ1300へと進化。追加設定される形で、同じくミケロッティがデザインしたスポーティなクーペが登場した。

 このコンテッサ1300クーペはミケロッティの傑作のひとつとして知られているが、実際にクルマのエレガンスを競う各地のコンクールでセダン、クーペともに高い評価を受けた。そして、サーキットシーンでも活躍し、国内外のレースで輝かしい戦績を残している。ミケロッティ・デザインのカッコいいクルマで、しかも速かったコンテッサ1300クーペは、日野自動車最後の乗用車となってしまったことあり、紛うことなき国宝級の旧車なのであった。

国宝級の国産旧車04:
マツダ・グランドファミリア

 続いて紹介するのは、もしかしたら中古車市場において一台も売り物がないかもしれないマツダ・グランドファミリアだ。マツダは1971年にファミリアプレストとカペラの間を埋める新たな大衆車として、グランドファミリアを発売した。同じタイミングに発売された初代サバンナとはシャーシやボディを共有する兄弟車だったが、ロータリーエンジン専用車であったサバンナに対し、グランドファミリアはレシプロエンジン専用車であった。ということで恐ろしく保守的なファミリーサルーンだったといえる。

 ボディ形状は、サバンナ同様、4ドアセダンと2ドアクーペ、そして5ドアのライトバン(サバンナはステーションワゴン)の3種類だったが、丸目4灯式ヘッドライトと丸型リヤコンビネーションランプのサバンナに対し、グランドファミリアは角型2灯式ヘッドライトと角型リヤコンビネーションランプを採用していた。

 1975年には丸目2灯式ヘッドライトに変更されるなど、販売促進のためのテコ入れが行われたが、モデルチェンジされることはなく一代限りで姿を消してしまった。筆者は実車を一度も見たことがないので、今回、国宝級の旧車としてセレクトさせていただいた。

国宝級の国産旧車05:トヨタ・スポーツ800

 最後に紹介するのはトヨタ・スポーツ800である。その誕生の経緯を記すとこういうことになる。通産省から1955年に発表された国民車構想に基づき、6年という年月を費やして開発された小型乗用車がトヨタ・パブリカだ。デビュー当初から好評を博し、一躍大衆車としての地位を確立した初代パブリカのメカニカル・コンポーネンツを流用し、愛らしいスタイルの軽量コンパクト・スポーツカーに仕立て上げたクルマがトヨタ・スポーツ800で、いまでも“ヨタハチ”の愛称で親しまれている。

 ヨタハチの直接的な祖となったのは、1962年に開催された第9回全日本自動車ショーにプロトタイプとして出品されたパブリカスポーツだ。試作車として生を受けたクルマなので、パブリカスポーツにはキャビン部分が戦闘機のキャノピーのように後方にスライドする機構が備わっていた。これには開発を担当した長谷川龍雄氏が、立川飛行機勤務時代に対爆撃機用の試作高高度防空戦闘機・キ94の設計に携わっていたことが深く関係していた。

 航空機設計のスペシャリストであり、初代カローラの開発を手がけたことでも知られる長谷川氏は、初代パブリカの主査も務めたが、その開発が一段落した頃から初代パブリカをベースとしたライトウェイト・スポーツカーを作ろうと画策。少ないパワーで高性能を得るためには空気抵抗および路面抵抗を減少させ、なおかつ徹底的に軽量化を果たすことが重要になるという自論を、パブリカスポーツにおいて実践したわけである。

 パブリカスポーツのコンセプトを受け継ぎ、改良のうえ量産化に至ったといえるトヨタ・スポーツ800は1965年に発売されたが、その開発時には当時としては画期的な風洞実験が行われ、ヨタハチは空力のセンターラインと重心のラインが揃っていた。また、日本で初めてボンネットやトランクリッドといった外板にアルミを採用し、総重量わずか580kgという超軽量化を実現。これは、シートフレームにまでアルミを使うといった努力を積み重ねたことによって達成することができた軽さであった。ヨタハチはエンジンこそ非力だったが、独自の空力設計と軽さで最高速度は当時のトップクラスとなる155km/hを誇る。

 ちなみに、タマゴ型ボディを採用していたトヨタ・スポーツ800は、ルーフの部分だけを脱着できるデタッチャブルトップを持っていたが、これはパブリカスポーツのスライディングキャノピーでは認可が下りなかったからだ。そのため、ヨタハチ用としてドアの付いた普通のボディがデザインし直された。

 Cd値が0.30を下まわる空力ボディをはじめとする数々のアドバンテージを携え、トヨタ・スポーツ800は1965年7月に開催された全日本自動車クラブ選手権レースにエントリーした。ヨタハチのステアリングホイールを握り、GT-1クラスに参戦した故・浮谷東次郎は、5周目の最終コーナーでのアクシデントで一度は下位に沈んだが、その後、鬼気迫る走りをみせ、結局2位に19秒近い差をつけて優勝。トヨタ・スポーツ800の優位性を証明してみせた。いまでもファンが多いヨタハチは、これからも国宝級の旧車のひとつとして各方面で注目されていくだろう。

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