大衆車から一転「攻撃的なルックス」に変身したマルニターボ
R32(スカイラインGT-R)やR35(日産GT-R)などのように、型式で呼ばれるクルマも少なくありません。AE86(カローラ・レビン/スプリンター・トレノ)などは、86が車名になるほどでした。その一方で車名を省略して呼ばれるクルマもあります。
その好例がハンドリングマシンと呼ばれる、BMWの代表モデルのひとつとして知られるBMWの2002で、“マルニ”は多くのクルマ好きにとって憧れのクルマです。その“マルニ”にターボを組み込んだ“マルニターボ”は、さらに至高の存在です。今回は“マルニターボ”を振り返ります。
エンジンメーカーから2輪を経て4輪メーカーとなったBMW
正式社名のBayerische Motoren Werke AG(独語でバイエルン発動機製造株式会社の意)からも分かるように、BMWはエンジンメーカーとしてスタートしています。第一次世界大戦後の1922年に2輪車の生産を手掛けるようになり、1929年には英国のオースチンからライセンス供与を受けて4輪車の生産も始めています。
そして3年後には自社開発した3/20 AM 1の生産を始めるなど、順調に発展を続けてきました。第二次世界大戦でドイツはふたたび敗戦国となり、東西に分割されますが、BMWにとってはアイゼナハ工場がソ連の占領下におかれ東ドイツの国営企業として独立するなど、大きな痛手となりました。
それでも敗戦から6年後の1951年には、BMWとして初の戦後型となる501で4輪車生産を再開しています。ただし翌1952年から発売が開始された501は、1954年にはV8エンジンを搭載した502に発展。高級スポーツカーとして高い評価を受けていますが、敗戦国のドイツでは営業的には苦しく、イタリアのイソからライセンス供与を受けて生産を始めたマイクロカーのイソ・イセッタ(リヤが1輪の3輪車。BMW製の車名はBMWイセッタ)の販売で糊口を凌いでいました。
BMWイセッタの発展モデルとして、リヤを2輪にしたBMW600はヒット作とはなりませんでしたが、1959年に発売した“普通の恰好”をしたBMW700がヒット商品となり、以後BMWの経営状況は好転していきました。
BMW700の次に登場したのが、ノイエ・クラッセ(Neue Klasse 。独語で新しいクラスの意)と呼ばれる一連のモデルでした。その先駆けは1961年のフランクフルトショーで発表されたBMW1500でした。シンプルでクリーンなスタイリングも好評でしたが、モノコックボディに組付けられたサスペンションは、フロントはBMWとして初のストラット式、リヤにはBMWの技術者が発案したセミトレーリングアーム式を採用。
これはBMWだけでなく以後多くのメーカーの多くのモデルが採用する新しいスタンダードとなっていきます。またフロントにロッキード製のディスクブレーキを採用したのも、BMWとしては初でした。
一方、エンジンもまったくの新開発で、まずは80HPという設計目標を立て、1499cc(82.0mmφ×71.0mm)という排気量が決定しています。ヘッドはカムをチェーンで駆動するOHCタイプとされていますが、それはクロスフロー式の燃焼室とするためでした。
OHVでもクロスフロー式の燃焼室は実現可能で、例えばトヨタでも、1967年デビューのセンチュリーに搭載されていた3V型エンジンでも、クロスフロー式のOHVが採用されていました。ただしロッカーアームやプッシュロッドの配置が複雑になるというデメリットがありましたが、OHCとすることでそれが解決したのです。