フェラーリ365GTB4 BB
1971年に開催されたトリノ・ショーのピニンファリーナ・ブースでデビューした365GTB4 BB。フェラーリがそれまでに送り出してきた市販12気筒エンジン搭載車とは異なり、F1用パワーユニット直系の水平対向12気筒エンジンとトランスミッションを一体化。それをミッドシップの位置にマウントするという斬新な機構を備えていた。
この365GTB4 BBの登場により、フェラーリのフラッグシップモデルはフロントエンジン車であるという古くからの伝統が幕を下ろした。モデル名は慣例に従い、365は1気筒あたりの排気量、4はカムシャフトの数、BBはベルリネッタ・ボクサーのことを示している。
総排気量が4390ccとなるエンジンの社内コードネームは「ティーポF 102 AB 000」で、各バンクあたり2基のトリプルチョークウェバー40 IF 3Cキャブレターを装備していた。外観上の特徴となるテールライトの処理は365GTC 4に準じたもので、3つの丸形ユニットが一段奥まったメッシュパネルに収まっている。
標準のホイールはシルバーに仕上げられた星形5本スポークの軽合金製で、センターハブにノックオフ式スピンナーで固定されていた。1973年から1976年まで生産され、387台が造られたといわれている。
デ・トマソ・パンテーラ
ティーポ874という開発コードで生産プロジェクトがスタートしたパンテーラは、デ・トマソがフォードと提携し、1970年に発表した異色のスーパーカー。何ゆえに異色なのかというと、フォードの強い要望で年産4000台という大量生産を前提としたモデルだからだ。
チーフエンジニアとしてシャシーの設計を担当したジャン・パオロ・ダラーラは、量産性に優れるセミモノコック構造を採用。ちなみに、アメリカではフォードが展開していたリンカーン・マーキュリーのディーラー網を使い、パンテーラは9000ドルという、スーパーカーとしては低価格で販売されたといわれている。
ミッドに搭載されたエンジンは、その生産工場の名前からクリーブランドユニットと呼ばれるフォード製のV型8気筒OHV(排気量351立方インチ=5750cc)で、最高出力300~310ps程度というスペックを誇った。エクステリアデザインは、当時デ・トマソの傘下だったギアにオーダー。すでにチーフデザイナーのジウジアーロが独立していたため、後任となったオランダ系アメリカ人のトム・ジャーダが担当した。
まずシンプルな装備とスタイルで登場したパンテーラは、1972年にラグジュアリーモデルのパンテーラLを追加設定。Lは、イタリア語で「豪華」を意味するLussoの頭文字だ。1973年にはハイパフォーマンスモデルのパンテーラGTSをラインアップに加えている。
デ・トマソの創業者であるアレッサンドロ・デ・トマソは、パンテーラのデビュー直後にグループ3/グループ4仕様の開発を指示し、グループ4モデルは1972年のル・マン24時間レースにもエントリー。そのスタイルを踏襲したロードモデルのパンテーラGT4も誕生した。
オイルショックの影響でフォードがパンテーラの販売から撤退したあと、デ・トマソは細々と生産を続けていたが、1980年に大幅なモディファイを実施し、イメージチェンジを狙ったパンテーラGT5をリリース。その後、GT5のマイナーチェンジ版であるパンテーラGT5Sを1984年に登場させたデ・トマソは、1990年のトリノ・ショーでビッグマイナーチェンジ版となるヌォーヴァ・パンテーラを披露している。
デ・トマソ創立30周年記念というタイミングでリリースされたヌォーヴァ・パンテーラのエクステリアデザインを担当したのが、ミウラやカウンタックを手がけたことで知られるマルチェロ・ガンディーニだったため、ヌォーヴァはガンディーニ・パンテーラとも呼ばれている。1970年から1994年までという長期にわたって生産されたパンテーラは、1990年までに7298台がラインオフしたといわれている。
今回の主催者テーマ展示「スーパーカードリーム」を彩ったランボルギーニ カウンタック LP400とフェラーリ 365GTB4 BBは、筆者の旧知の仲であるオーナーの愛機だった。見慣れたクルマが再度注目されて嬉しかった。子どものころ、夢中になって追いかけた未来のクルマが、令和になってもじっくり見られるのもこのイベントならでの楽しみ方だ。