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マツダのオート三輪「T2000」が蘇った! マツダを支える地元企業と販売会社の魂の仕事

レストアされたT2000

多く人の生活を支えた昭和の名車が蘇る!

 昭和40年代に日本のあちこちで活躍していた三輪トラック「マツダT2000」が、かなり良い状態で動態保管されているという情報を耳にし、広島に飛んだ。あわせて、「マツダポーターバン」というFRの軽貨物車も間もなく走り出すという。昭和の子どもたちは、例えそれが働くクルマであっても、目の前を颯爽と走るクルマの姿に胸躍らせたものだ。そんな、少年時代に戻ったかのようにワクワクしながら、広島マツダの工場を覗かせてもらった。

「作るは一時、使うは一生」の精神で作られていた

 現代の自動車生産技術では、およそ1分に1台ずつ量産車両はラインオフされるという。わが自動車大国ニッポンの誇るべき技術だが、手工業中心だったクルマ作りから大量生産・大量消費時代を迎えた「昭和」にこの技術は大躍進した。その作業の正確性(不具合の少なさ)から日本国内だけでなく、メイドインジャパンのクルマたちが欧米にも受け入れられたから、今日の繁栄があるのは疑いない。

 少し前にマツダの本社工場を取材させてもらった経験があるので、まさに現代のクルマたちがいかに正確に、しかも効率的に生産されているかを理解しているつもりだ。しかも生産ラインの各セクションに設けられている検査の目は厳しく、一切の不具合をも見逃さない気概を感じたものだ。

 そこに働く技術者から聞いた「作るは一時、使うは一生」の精神が、日本車の信頼感を醸成していることがよくわかる。もちろん、それはマツダだけではなく、ほかの国産メーカーでもそうであり、今では海外工場でも日本国内と同じシステム、同じ精神でクルマは作られているのだ。あらためて、ニッポン人はすごいと思う。しかし、その背景には、手工業時代から正確性を追求し続けてきた日本人の真面目な素性が息づいていることは間違いない。

「カマドウマ」マツダT2000が復活

 東洋工業(マツダの旧社名)は、戦前に三輪トラックの生産を始め、戦後はまさに焦土と化した広島の街の再建のため、日々増産し続けたという。焼け野原を縦横に走る三輪トラックが、広島の街の奇跡の復興を助けたと言っても過言ではないようだ。

 小回りが利き、操作性に優れたマツダ三輪トラックは日本全国に普及し、その後K360軽三輪トラックと小型のT1500三輪トラックへと発展。1962年にT1500の排気量が2.0Lに拡大されると、人気車種として日本各地に広がっていった。少量ハンドメイド生産時代の産物だ。筆者の記憶では、昭和40年代の東京でもこのT2000三輪トラックは多数が走っており、フロントの雰囲気が昆虫の「カマドウマ」に似ていると思い、わが家族の間ではこのトラックを見つけると「あっ、またカマドウマが走っている」とはしゃいだものだ。

 その後都内では見かける機会は減っていったが、昭和50年代後半でも西伊豆の海岸線を走る県道では、このT2000が現役で働いていたことを鮮明に覚えている。多くは建築業者達が活用していたのだろう、狭くクネクネと曲がりくねった海岸線の道では角材を満載したT2000によく出会ったものだ。

 ちなみに、最終型のT2000三輪トラックは、水冷4気筒排気量1985ccで、全長6.08m、全幅1.84mながら、最小回転半径が5.93mと小回りが利いたため、重宝されたのだろう。昭和は、三輪トラックの利点が最大限に活かされた時代だったといえる。

 さて、件のマツダT2000だが、この個体は比較的新しい昭和47年(1972年)製であり、山口県で材木業を営むオーナーから譲り受け、広島マツダが展示や社内行事に使うために購入したものだ。2016年5月の広島フラワーフェスティバルでパレード走行した個体そのものである。市内平和記念公園の一角にある原爆ドームの隣に立つ、広島マツダ自社ビル「おりづるタワー」のオープンに合わせたデモンストレーションに活用されたという。

 広島マツダの山根一郎 取締役サービス領域担当によると、「程度の良いクルマだったのですが、パレードののちブレーキフルードが漏れ、さすがにそれでは継続使用することができず、困っていました。また、松田哲也会長からもいつでも動かせるようにメンテナンスを行っておくように、との指示がありました。そこで以前から親交があり広島マツダのお客さまである日清紡精機広島の大川社長に相談することにしました」

「聞くところによると、コスモスポーツオーナーズクラブの方々のオーダーで、L10A/L10B型コスモスポーツのマスターシリンダーなどを100台分再生産したことがある、というではないですか。早速、お願いに伺いました」と語ってくれた。日清紡精機広島は、かつて広島市内にあり東洋工業の量産車両のブレーキ部品を一手に生産する辰栄工業という会社であった。その後、海外資本が入ったものの、現在は日清紡グループの一員として再建し、マツダとの取引を継続中だという。その日清紡精機広島の本社工場にも伺ってみた。

旧辰栄工業の技術を伝承する日清紡精機広島

 東広島市の工業団地にある日清紡精機広島で対応していただいたのは、営業部の中井 洋部長である。前身の辰栄工業は、戦後間もなく可動式消防ポンプの製造販売メーカーとして広島市内に設立され、東洋工業のブレーキ部品の製造委託を受注する。その後は数多くのマツダ車のブレーキ製造を担ってきた。

 バブル経済の終焉後にドイツのメガサプライヤーに買収されたあともマツダとの取引は継続していたが、リーマンショックとともにそのメガサプは中国に軸足を移すことに。マツダとの取引も希薄になっていくなか、日清紡グループの傘下となり、旧辰栄工業の事業を継承することとなった。まさにマツダの浮沈に大きく左右されながらも生き抜いてきた地場サプライヤーなのである。

 現在はSKYACTIV技術の一端を担う納入メーカーとして、吸排気制御バルブの生産などに携わっているが、一方で辰栄工業時代に培ったシリンダー技術を伝承するため、レストア部品事業を立ち上げている。そのきっかけは、マツダ100周年事業の一環でスタートしたコスモスポーツのレストアであった。ブレーキ部品のオーバーホールを担当したことから、コスモスポーツオーナーズクラブのメンバーの方に伝わり、シリンダーパーツを復刻生産することとなったのだ。

 大事なクルマを末長く保有するため、ブレーキ部品のリフレッシュはマストである。100台分限定で継続生産はしないという条件でブレーキシリンダー、クラッチシリンダーなどの3部品を復刻し納めている。手順は、オリジナルパーツを3Dスキャンして3D CADに取り込み、新たに現代技術でシリンダーを成形。ピストンやバルブのようなインナーパーツは、現代のパーツを移植して成立させている。コスモスポーツの場合は、初代ロードスターの構成部品が活用できたと言う。

 レストア事業を正式に発足させることを決めていた広島マツダは、コスモスポーツの事例をもとに、少量レストアに応じることができるかを日清紡精機広島に相談した。小規模でもカスタマー要求に応えたい、という両社の思惑は合致。T2000のブレーキシリンダーの補修を実施することになった。

 日清紡精機は分解洗浄に始まり、外観ケースの錆落としと塗装、内径研磨を経てピストンを新規設計製作し、ガスケットやラバー部品を調達して組み上げおよび性能検査までを実施している。「新規設計製作が発生すると、費用はグンと上がります。ある程度採算度外視でないと実現しないですね」と中井部長は語る。

 一方、広島マツダの山根取締役は、「昨年はレストアされたマツダ737Cレースカーのエンジンオーバーホールも担当させていただき、今回弊社のT2000が蘇ったことで、レストアを収益事業化しようということに決定しました。修復第2弾は、昭和49年式のポーターバンです。FR駆動方式の軽規格バンで、2サイクル2気筒水冷360ccエンジンを搭載しています。こちらも補修部品が無く普通にオーバーホールが出来ないブレーキ部品の修復を日清紡精機さんにお願いしており、今年の夏前にはふたたび走れるようにしたいと考えています」と語っている。その噂を聞きつけた旧車オーナーからの問い合わせが増えているという。

 かつて大量生産ラインの一端を担いながら、時代の流れとともに事業形態の変化を余儀なくされた地場サプライヤーが、かつての技術を伝承するためにレストア事業を起こし、大量生産されたクルマを販売し定期的な点検メンテナンスを担当する地元の自動車販売会社が同じようにレストア事業をスタートさせる。「クルマを大事にしているカスタマーの願いを叶えたい」。両者に共通する話を聞いていると、戦後の手工業時代から綿々と培った真面目なニッポン人のクルマに対する心意気を垣間見た気がした。

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