メモリー付きチルト&テレスコピックステアリングの採用は世界初を謳った装備だった
季節外れだが、よく引き合いに出すヤマタツ(山下達郎)の「クリスマスイブ」がそうであるように、何かひとつでも誰もが知っている超有名なレパートリーを持っているのは、いろいろな意味で強みである(ヤマタツが好きな筆者はアルバム20数枚、ほかにもシングルも含めほぼすべて揃えており、どれも名曲揃いだが)。
クラウンにとっての強みのひとつは、やはり“いつかはクラウン”のキャッチフレーズがあることだろう。こうして後々になっても記事に取り上げられるくらいのメリットになっているのは紛れもない事実だし、誰でもクラウンが“そういうクルマ”だったことがこのフレーズを聞いただけで理解できる。
そういうクルマ……とは、かつてセルシオ(レクサスLS)が登場するまでクラウンは、トヨタの乗用車のヒエラルキーの頂点に立つクルマで、憧れの存在だったということ。ちなみにクラウンではもうひとつ“白いクラウン”というのがあり、それは3世代目(1967年〜)の時代、クラス初の2ドアハードトップが登場した世代で、当時、それまでの黒塗りの公用車イメージだったクラウンに個人ユーザーの需要を増やす原動力になった。
ステイタスシンボルとして位置付けられたクラウン
ところで“いつかはクラウン”のキャッチフレーズが使われたのは、1983年に登場した7世代目、MS120系のときのこと。事実関係でいうと1981年に初代ソアラがデビューを果たしており、トヨタの周到な配慮として、この7世代目クラウンでは6世代目まで2ドアと4ドアの2種が設定されていたハードトップのうちの2ドアがカタログからドロップ、ハードトップについては4ドアのみが設定されるようになった。
2ドアの頂点はソアラとし、クラウンの4ドアハードトップはよりフォーマルな用途にも通用する、(こう言うと言葉が少々イヤらしいが)ステイタスシンボルとして位置付けられた……ということだった。
で、このMS120系クラウンは、メカニズム的には伝統と革新の両方で成り立っていた。とくにシャシーまわりでは、それまでどおりのペリメーター型のフルフレーム構造を踏襲。これに当時の量産FR車としては世界で唯一だった前=ダブルウイッシュボーン/後=セミトレーリングアーム式の4輪独立懸架方式のサスペンション(ペガサスと呼ばれた)を組み合わせ、フレーム構造ならではの乗り心地のよさと、“4独”の操縦安定性の高さを両立させたものとしていた。電子制御サスペンションTEMSの投入も見逃せない。
また日本初として、のちに一般化する4輪ABSの先駆けとなった“4輪ESC”が搭載されている。スキッドコントロール機能は6世代目では後輪に採用されていたが、左右独立回路の前輪と後輪(左右)の組み合わせに進化したものだった。なおこの7世代目で、スポーティなサスペンション設定の“アスリート”が特別仕様車として登場。のちにシリーズ化された源流となっていた。
さらに1988年に国産乗用車では初のスーパーチャージャーが登場したのも、この7世代目クラウンのニュースのひとつ。2Lの1Gツインカムをベースとしたユニット(1G-GZEU型)で、クランクシャフトからベルトにより直接駆動とし、シリンダー内に強制過給、中・低速の大幅なトルクアップと、電磁クラッチの採用による低燃費を実現させていた。
ネット160ps/21.0kg−mと、2Lながら大排気量並のパフォーマンスを発揮させるパワーユニットだった。このスーパーチャージャーのほか、3L(6M-GEU型)、2Lツインカム(1G-GEU型)が上位のパワーユニットとしてロイヤルサルーン系に搭載されていた。
そのほか細かなことだが、メモリー付きチルト&テレスコピックステアリングの採用は世界初を謳った装備のひとつ。また外観ではこの世代からドアミラーが採用された。