まさかの悲劇で市販計画はお蔵入り
ところが年明け1949年1月のブエノスアイレスGPで、ジャン・ピエール・ヴィミーユは「ゴルディーニ・シムカ」で練習走行中、事故死してしまう。戦前に乱立していたグランプリの統一レギュレーションが策定され、フォーミュラA次いでフォーミュラ1の名称が出来上がり、1950年からシリーズ戦開催が決まっていた矢先だった。フォードはヴィミーユ市販計画を躊躇し、3台もしくは4台のプロトタイプが製作されたあと、最終的に破棄された。
ヴィミーユの薫陶を受けたデザイナーがドイツの名車を生んだ
だがヴィミーユと組んでプロトタイプを製作した、元ドライエのデザイナーにしてインダストリアル・デザイナー、ピエール・シャルボノーのスタジオでインターンをしていたポール・ブラックという青年は、その手腕を見出され1957年から10年間、メルセデス・ベンツでデザイナーとして活躍。「600リムジン」やパゴダこと「230SL」、Eクラスの元になった「W114」を世に送り出したあと、BMWのチーフデザイナーとなりE12からE24、つまり初代5シリーズから6シリーズのすべてを手掛けた。
ようは巷でこれぞドイツ車! を代表するかのような歴史的モデルは、間接的ながらヴィミーユの薫陶を受けたフランス人デザイナーの手で描かれたのである。
ちなみに現在のフランス車として、「DS 3クロスバック」に「イネス・ドゥ・ラ・フレサンジュ」の名を冠した限定モデルがあったが、ヴィミーユの奥方は故クリスティアーヌ・ド・ラ・フレサンジュ、元スーパーモデルの父の従妹にあたる。いずれ、ヴィミーユと名づけられたこれらの奇妙なプロトタイプは、もしかしてブガッティが「ヴェイロン」と「シロン」(ルイ・シロンも戦前からブガッティ・ドライバー)以外にも候補として検討しつつボツにしたかもしれない、それほどのビッグネームに由来するのだ。