よりスポーツ性の高いヨーロッパのラリーにも挑戦
サファリで総合優勝を目指していたころ日産は、もうひとつのチャレンジとしてヨーロッパ・ラウンドのクラシックイベント、伝統のモンテカルロ・ラリーにも参戦を始めていました。
初年度となった65年はリタイアに終わり、翌66年にはブルーバードSSで完走はしたものの59位、翌67年は58位、と世界の壁は厚かったようです。それでもフェアレディ2000に車両を変更した68年には、ハヌー・ミッコラ組が勇躍9位に進出していました。やはりハイパワーなポルシェ、ランチア・フルビアやアルピーヌ・ルノーといったラリー・スペシャルに対抗するには、1300ccのセダンでは厳しかったのでしょう。
そのフェアレディ2000に比べて大きくポテンシャルを高めた240Zを71年に投入すると、ラウノ・アルトーネン組が5位入賞。翌72年にはやはりアルトーネン組が3位入賞を果たしています。70年代後半には主戦マシンがブルーバード/初代バイオレット後継の2代目バイオレット(PA10型)に移行しましたが、サファリラリーやオーストラリアのサザンクロスラリーに戦いの場を求めました。
先に紹介したように79年から82年までサファリ・ラリー4連覇を飾っていますが、ヨーロッパラウンドへの参戦は一時休止状態となっていました。その間に、バイオレット以上となるラリーマシンの開発を進め、三代目シルビア(S110型)をベースにした240RSを製作。
これはシルビアのボディにR30型スカイラインRSに搭載されていた、FJ20Eエンジンを搭載するRSグレードを設定。そのRSをベースに2.4L直4ツインカムでインタークーラーターボを装備したものでした。そして、その後継として88年には四代目シルビア(S12型)をベースに3L V6エンジンを搭載したシルビア200SXが製作されていました。
ただし残念ながら、このころになるとWRCはもうフルタイム4WDシステムを組み込んだマシンが天下を取り、大半のイベントが後輪駆動では勝負にならなくなってきていました。そのため200SXは、ハイパワーの後輪駆動が唯一勝負できるアフリカのイベントに参戦。デビューイヤーの88年にサファリで2位、2輪駆動のクラス優勝を果たしています。
2Lターボ+4WDのパルサーGTI-Rを投入するも……
WRCにおいて、フルタイム4WDのラリースペシャルにしか勝負権がなくなったのは、グループBからグループAに替わっても何ら変わることはありませんでした。そこで日産では、新たなウェポンを開発することになりました。それがパルサーGTI-RをベースにしたグループA車輌でした。
ライバルは2Lクラスのボディから1.6Lクラスのボディに主要コンポーネントを移植した、第二世代のグループAマシンに移行していました。ですが、日産ではさらに一歩進めて、1.3Lクラスのコンパクトなボディに、2L直4ターボエンジンとフルタイム4WDシステムを組み込んだ“最強マシン”を投入することになったのです。
昔から軽量コンパクトは永遠の正義と言われ、スポーツカーやスポーティカーを製作するのに、ハイパワーエンジンをよりコンパクトなボディに搭載するのは常套手段でした。
しかし、思わぬ足枷がつくことになりました。コンパクトであったがゆえに、エンジンルームにはエンジン本体とターボ、それにフルタイム4WDシステムの大半が押し込まれてしまい、クーリングエアの通り道が確保しにくくなってしまいました。またホイールハウス(のサイズ)が限られていて、大径で太いタイヤを履くこともできませんでした。
さらに、ライバルに比べてパルサーGTI-Rのみトレッドが狭かったために、轍のサイズが遭わず、ドライビングが難しくなるという問題にも遭遇することになりました。結局、グループAでは92年のスウェデッシュにおける3位がベストリザルトで、早々にWRCの檜舞台から撤退することになりました。ですが、改造範囲が厳しく制限されていて、ベースモデルのポテンシャルが競技車両のパフォーマンスを大きく左右するグループNでは大活躍。WRCのグループN部門でチャンピオンに輝くとともに、英国ラリー選手権でも2年連続してチャンピオンを獲得しています。
グループAとしては“悲運のクルマ”との烙印を押された印象もありますが、グループNでは本来のポテンシャルを遺憾なく発揮していたのです。