FIA GT選手権で圧倒的な強さを見せる
はたしてBRPグローバルGTシリーズを下敷きに、1997年シーズンからスタートしたばかりのFIA GT選手権において、CLK-GTRはGT1クラスで全11戦中6勝という圧倒的な強さを見せた。このシリーズは今でいうWEC(世界耐久選手権)の母体といえる。当時はまだル・マン24時間が年間スケジュールに組み込まれていなかったものの、GT1規定の車両で争われていた。
だからメルセデス・ベンツが満を持して、CLK-GTRのV12をより燃費効率に優れるV8に換装した、CLK-LMというワークスマシンで1998年のル・マン24時間に戻ってきたときは大きな注目を浴びた。シルバーアローのル・マンへのワークス復帰はじつに1989年の最後の総合優勝以来、シャシーとエンジンのフル・ワークス体制では1955年にまで遡るのだから。
不運に見舞われ、ル・マンからベンツが撤退することに
CLK-LMはル・マン24時間こそリタイアで終わるが、1998年シーズンのFIA GT選手権は全戦優勝という圧倒的な強さで、前年のCLK-GTRに続く連覇を果たした。翌1999年はGT1カテゴリーが消滅し、のちのル・マン・プロトタイプの元となる「LMGTP」が創設され、CLK-LMはバルケッタ・ボディのメルセデス・ベンツCLRに進化した。
優勝候補の最右翼だったこのクルマはしかし、サルト・サーキットとの相性は最悪だった。予選から本戦にかけて、2度もユノディエールの最高速度ポイント近くで宙を舞ってしまったのだ。マーク・ウェバーをはじめドライバーふたりは無事だったものの、メルセデスは耐久プログラムを金輪際停止し、F1に注力していくことになる。
以降のメルセデスAMGのF1での無敵ぶりは周知の通りだが、それに先立つ檜舞台での大きなつまずきも、強烈な印象を残した。ちなみにこのアクシデントの直後、ル・マンの主催者ACOは「ミュルサンヌ・ボッス」(ストレートエンド付近の路面の凸状不整)を、改修工事で削り取ったことも付記しておく。
栄光と苦渋の鮮烈なコントラスト
2002年には再びV12搭載のロードカーとして、ルーフが取り除かれLMGTPにより近い外観を備えた「CLK-GTRロードスター」も登場した。
金融危機が足を引っ張っていた2010年前後こそ、CLK-GTRロードカー版の落札値は1億円を切ることもあったが、2018年にアメリカはモントレーで行われたオークションでは約451万5000ドル(約5億9000万円)を付けた。完全復調どころか、世界最高額と騒がれた現役当時の2倍スコアをも、達成しているのだ。