パブリカ用の空冷フラットツインを搭載し、経済性もアピール
トヨタのワンボックス兄弟の末弟とされるミニエースが、ほかの兄弟と最も異なっていたのは、搭載されるエンジン。兄貴たちが登場年次によってプッシュロッドのOHVだったりOHCだったり、あるいはツインカムだったりの違いはあっても、すべて水冷の直4エンジンを搭載。対して、末弟のミニエースだけは空冷でプッシュロッドOHVの水平対向2気筒エンジンを搭載していたことです。
このエンジンは、トヨタの乗用車ラインアップのなかで、エントリーモデルに位置付けられていた初代「パブリカ」の後期モデル(UP20系)に搭載されていた2U型を、商用モデル向けにチューンし直した2U-B型で、36psの最高出力を絞り出していました。
その一方で基本的なパッケージングとしては、設計年次の近い長兄のハイエースと近いものがありました。ラダーフレームにスチールパネルをプレス成形した外板パネルで構築したボディを架装したもので、フロントサスペンションは横置きのリーフスプリングで吊ったダブルウィッシュボーン式の独立懸架。リヤは縦置きのリーフスプリングでアクスルを吊ったリジッド式で、荷重のかかり具合によって補助スプリングが働くという、荷重変化の大きなトラックやバン、あるいは多人数乗車の頻度の多いコーチにとっては理想的なサスペンションでした。
ブレーキはフロントがツーリーディング、リヤがリーディング&トレーリングの4輪ドラム式。スペックのみでは物足りなさも感じられますが500kgの荷物を載せた満載時の、時速50kmでの制動テストでも、制動距離はわずかに13m。軽自動車の4輪トラックの平均が14mだと、カタログにも明記されていました。
軽規格の拡大でモデルライフが終焉
そのサイズ感といい、800ccの排気量といい、当時としてはまさに軽の一歩上をいくジャストな1台だったのですが、その後は軽自動車の規格が二度三度変更されたことで、明確な差が出しにくくなってきました。
実際には空冷のフラットツインエンジンが、排気ガス規制の昭和50年度排出ガス規制をクリアすることができずに1975年一杯で生産と販売を終了してしまっていたのですが、もし仮に、その後も生産が継続されていたとしても、当時のメリット感が継続していたかは疑問の残るところです。排出ガス規制を乗り越えるために、例えば2代目パブリカに搭載されていた1L直4の2K型に換装されていたとしても、排気量が1Lのワンボックスワゴン/バンの存在感がいかほどなものであったのか。やはりモデルライフは終わるべくして終わった、というべきかもしれません。
個人的には3世代の7人家族だった岡山の実家では、父親が中古で買った初代のパブリカ(700ccの前期型)からモータリゼーションが始まり、トヨタカローラ店との付き合いも深まっていたため、ミニエースのカタログは、小学生だった次男坊主の「愛読書」のひとつとなっていました。可愛い顔で可愛いなりして7人乗りだった「コーチ」には、小学生ながら理想のファミリーカーを感じていたのですが、兄貴とふたりでホンダに宗旨替えをした結果、ミニエースのコーチがわが家のファミリーカーとなることはありませんでした。