8年間の短命に終わった最小の「エース」
1990年代のRVブームのころから、乗用車としての市民権を得た「ワンボックスカー」ですが、その歴史は意外に長いものです。普通の乗用車でもフルラインアップを誇るトヨタでは、ワンボックスでもラインアップを充実させていました。今回はその兄弟たちのうち、もっともコンパクトだった末弟の「ミニエース」を振り返ってみました。
トヨタのワンボックス兄弟のなかでも2番目に登場した末弟
トヨタのキャブオーバー・モデルとしては、1954年にセミキャブオーバーのトラックとして「ライトトラックSKB型」が登場し、2年後からは「トヨエース」の愛称を名乗るようになりました。ただしトヨエースは後にフルキャブオーバーとなりますが、この当時はセミキャブオーバーでしたし、何よりもトラックのみでワンボックスボディのワゴンやバンは存在していませんでした。ただし「エース」の名を最初に与えられたモデルとして見逃すわけにはいきません。
次に登場したエースは、コロナのエンジンを搭載して67年に登場した「ハイエース」でした。こちらもデビュー当初はトラックのみでしたが、8カ月後にワンボックスボディのワゴンが登場していました。パッケージとしてもフルのキャブオーバーで、こちらをトヨタのワンボックス兄弟の長兄と考えるのが妥当と思われます。
トヨタ初のスライドドア採用モデル
そのハイエースのワゴンが登場した翌月、1967年11月に、兄弟の末弟となる「ミニエース」が誕生しています。こちらも最初はトラックのみで、3カ月後に7人乗りの「コーチ」と4人乗り/5人乗りのバンが追加設定されています。コーチとバンはスライドドアを装備していましたが、ハイエースのワゴンは、初代モデルに関してはリヤドアもヒンジ式でしたから、このミニエースがトヨタで初のスライドドア・モデルとなりました。
ちなみに90年代のRVブームを追い風に大ヒットモデルとなる「ライトエース」は70年の登場で、さらにその6年後に「タウンエース」が誕生しています。この4兄弟で言うならハイエースが長兄でタウンエースとライトエースはそれぞれ次男坊と三男坊。ミニエースは末弟ということになりますが、登場年次で言えばハイエースとほぼ同じでした。
ミニエースが兄弟の末弟という位置づけは、ボディサイズや搭載するエンジンの排気量によるものです。実際に「コロナ」用の1300ccエンジンを搭載したハイエースの3サイズ、全長×全幅×全高は4305mm×1690mm×1890mmで車両重量が1130kgだったのに対して、ミニエースのそれは3585mm×1380mm×1630mmと720kg。ハイエースの弟分というよりも軽自動車枠を少し超えてきた、との印象がありました。具体的に軽のワンボックスバンとして先駆けとなった「スバル・サンバー」のサイズと重量は、2990mm×1300mm×1520mmと392kgでしたから、60cm近くも長くなった全長を除くとミニエースは、軽自動車であるスバル・サンバーをひとまわり大きくした程度です。
ひとまわり大きくなったことで積載能力は着実に引き上げられ、最大積載量は、ふたり乗りでトラックは500kg、バンなら400kgとされていて、軽自動車の350kgより多くの荷物を載せることが可能となっていました。その一方でホイールベースは1950mmと、これも軽自動車に毛が生えた程度のため、最小回転半径が3.9mとほぼ軽自動車並みに抑えられていましたから使い勝手も軽とほぼ同様。またバンでは5人乗車が可能でしたし、コーチは3列シートで7人乗車も可能で、それも大きなセールスポイントとなっていました。
パブリカ用の空冷フラットツインを搭載し、経済性もアピール
トヨタのワンボックス兄弟の末弟とされるミニエースが、ほかの兄弟と最も異なっていたのは、搭載されるエンジン。兄貴たちが登場年次によってプッシュロッドのOHVだったりOHCだったり、あるいはツインカムだったりの違いはあっても、すべて水冷の直4エンジンを搭載。対して、末弟のミニエースだけは空冷でプッシュロッドOHVの水平対向2気筒エンジンを搭載していたことです。
このエンジンは、トヨタの乗用車ラインアップのなかで、エントリーモデルに位置付けられていた初代「パブリカ」の後期モデル(UP20系)に搭載されていた2U型を、商用モデル向けにチューンし直した2U-B型で、36psの最高出力を絞り出していました。
その一方で基本的なパッケージングとしては、設計年次の近い長兄のハイエースと近いものがありました。ラダーフレームにスチールパネルをプレス成形した外板パネルで構築したボディを架装したもので、フロントサスペンションは横置きのリーフスプリングで吊ったダブルウィッシュボーン式の独立懸架。リヤは縦置きのリーフスプリングでアクスルを吊ったリジッド式で、荷重のかかり具合によって補助スプリングが働くという、荷重変化の大きなトラックやバン、あるいは多人数乗車の頻度の多いコーチにとっては理想的なサスペンションでした。
ブレーキはフロントがツーリーディング、リヤがリーディング&トレーリングの4輪ドラム式。スペックのみでは物足りなさも感じられますが500kgの荷物を載せた満載時の、時速50kmでの制動テストでも、制動距離はわずかに13m。軽自動車の4輪トラックの平均が14mだと、カタログにも明記されていました。
軽規格の拡大でモデルライフが終焉
そのサイズ感といい、800ccの排気量といい、当時としてはまさに軽の一歩上をいくジャストな1台だったのですが、その後は軽自動車の規格が二度三度変更されたことで、明確な差が出しにくくなってきました。
実際には空冷のフラットツインエンジンが、排気ガス規制の昭和50年度排出ガス規制をクリアすることができずに1975年一杯で生産と販売を終了してしまっていたのですが、もし仮に、その後も生産が継続されていたとしても、当時のメリット感が継続していたかは疑問の残るところです。排出ガス規制を乗り越えるために、例えば2代目パブリカに搭載されていた1L直4の2K型に換装されていたとしても、排気量が1Lのワンボックスワゴン/バンの存在感がいかほどなものであったのか。やはりモデルライフは終わるべくして終わった、というべきかもしれません。
個人的には3世代の7人家族だった岡山の実家では、父親が中古で買った初代のパブリカ(700ccの前期型)からモータリゼーションが始まり、トヨタカローラ店との付き合いも深まっていたため、ミニエースのカタログは、小学生だった次男坊主の「愛読書」のひとつとなっていました。可愛い顔で可愛いなりして7人乗りだった「コーチ」には、小学生ながら理想のファミリーカーを感じていたのですが、兄貴とふたりでホンダに宗旨替えをした結果、ミニエースのコーチがわが家のファミリーカーとなることはありませんでした。