ポルシェが出場していたからこそ生まれた「伝説」
スカイラインの歴代モデルはライバルを相手にサーキットを舞台に華やかに戦ってきました。今回は、その栄光の伝説の最初のページに登場する、レースに勝つために製作された2000GT-Bを振り返ります。
約束を正直に守って惨敗した翌年は「勝つため」に新たなモデルを投入
スカイラインの初代モデルは、上級モデルのグロリアを派生させるなど、豪華車路線を走っていましたが、1963年9月に登場した2代目ではグロリアとは訣別し1.5Lの小型乗用車=ファミリーカーへの路線にシフトしていました。
翌1964年には、国内における近代モータースポーツの幕開けとなる第1回日本グランプリが開催され、国産各メーカーのさまざまなモデルがレースに参加しています。ただし、レースを前に自動車工業会では「日本グランプリにはメーカーが直接タッチしない方が望ましい」との申し合わせがあり、プリンス自動車工業では、その申し合わせを馬鹿正直に守り、チューニングなど参加者のバックアップもしないままにレース本番を迎えることになりました。
メーカー系のドライバーが出場したり、メーカー自らがクルマのチューニングを手掛けたり、といったライバルに敵うはずもなく、第1回日本グランプリではプリンスのクルマは惨敗に終わってしまいました。そこで翌年開催される第2回日本グランプリに向けて、ソフトとハードの両面からプリンス自動車工業が全面的にバックアップすることになりました。
ソフトはレースの実戦部隊、いわゆるワークスチームのオーガナイズで、ハードは彼らが使用するワークスマシンの開発でした。ツーリングカーレースでは1600cc以下のクラスにスカイライン1500デラックス、2000ccクラスにはグロリア・スーパー6で参戦することがすんなりと決まったのです。
ともに1963年にフルモデルチェンジし登場した2代目モデルで、ポテンシャル的には申し分ないものでした。しかし、前年に自工会の申し合わせを馬鹿正直に守って惨敗していただけに、プリンスの技術陣にとってはツーリングカーレースで勝つだけでは、その悔しさを晴らすことができません。
そこで提案されたのが、GTレースにも参戦し、ツーリングカーの2レースと合わせて三冠を勝ちとろうというものでした。そしてそのためのマシンは、スカイラインの1500デラックスをベースにするところまではすんなりと決まったのですが、充分なパフォーマンスを引き出すには1.5Lの直4エンジンでは力不足は否めません。
そこで飛び出した仰天アイデアが、スカイラインにグロリア・スーパー6の直6エンジンを搭載するというものでした。ただし言うは易し……、です。直4エンジンの搭載を前提に設計されたコンパクトなスカイラインのエンジンルームに、グロリア・スーパー6の直6エンジンを滑り込ませるのは到底不可能と思われました。
そこでふたたび仰天のアイデアが飛び出します。スカイラインのノーズとホイールベースを200mm延長するというプランでした。GTレースに参戦するにはホモロゲーション(車両公認)を取得する必要があって、そのためにも100台の車輌を完成させなければなりません。1964年の5月に行われる第2回日本グランプリに間に合わせるため、熟練メカニックの板金作業によって手作りで仕上げていく。100台の製作はまさに突貫工事でした。