レースで鍛えられたグランツーリスモ
1965年の東京モーターショーに、生産モデルにほぼ近いコンセプトモデルが出展されたトヨタ2000GTですが、まだ販売が開始される前の1966年5月、富士スピードウェイで行われた第3回日本グランプリのメインレースに出場し、3位入賞を果たしています。
もう少し詳しく説明すると、2000GTはその名の通りGTカテゴリーに属するクルマで、ポルシェ906や日産R380などレーシングプロトタイプ(当時のグループ6)が参戦するメインレースではなく、フェアレディ1600が参戦するGTレースに出るべきクルマでした。
しかし、まだ発売前ということで車両公認されるべくもなく、プロトタイプの純レーシングカーと判断されたのです。なので1-2フィニッシュを飾った純レーシングカーの日産R380に続いて3位入賞したのは称賛されるべきリザルトです。
グランツーリスモらしく、レーシングカーに比べて重いこともあって、この年の日本グランプリのようなスプリントレースは得意種目ではなく、より長距離・長時間を戦いながら走り抜く耐久レースの方が得意でした。それを証明したのがその後の戦績です。
まずは日本グランプリの1カ月半後、鈴鹿サーキットで行われた鈴鹿1000kmレースでは総合優勝を飾っています。さらに翌1967年3月の鈴鹿500kmで勝ち、4月の富士24時間、7月の富士1000kmでも優勝を飾っています。
とくに国内で初めて開催された富士24時間レースでは、1-2フィニッシュを飾った2000GTが、僚友であるトヨタ・スポーツ800を挟んで3台でゴールラインを横切る“デイトナ・フィニッシュ”を演じ、大きな話題となっていました。
一方、1966年10月には茨城県の谷田部にあった日本自動車研究所の自動車高速試験場において、スピードトライアル(国際速度記録挑戦)にも挑戦しています。
キャプテンの細谷四方洋を中心に、チーム・トヨタの5人のドライバーが交替でドライブ78時間/1万6000kmに渡って連続で全開走行を続けた競技会。結果的に72時間走行時の平均速度206.02km/hなど排気量無制限の3つの世界記録と、Eクラス(2000cc以下)の13の国際記録を更新しています。
近年、トヨタ自動車の豊田章男社長が「レースでクルマを鍛える」とコメントする機会も増えましたが、トヨタはこんな昔から、レースでクルマを鍛えていたのです。そしてトヨタ2000GTの高いポテンシャルはこうして生みだされたのです。
トヨタ2000GTのシャシーにはバックボーンフレームが使用されています。これは、ロータスが好んで使用していたのに倣ったもので、フロントにエンジン/トランスミッションを搭載しリヤデフを搭載。フレームの左右にふたつのシートスペースを設けるというもの。
ヤマハで開発とチューニングが施されたエンジンは、クラウン用のM型をベースにヤマハで設計開発したツインカムヘッドを組み込んだ3M型エンジンをフロントアクスルの後方、いわゆる“フロント・ミッドシップ”に搭載。サスペンションはコイルで吊ったダブルウィッシュボーン式の独立懸架。ブレーキも、当時は4輪ドラム式が一般的でしたが、4輪ディスクが奢られていました。
スタイリング的にはリヤにハッチゲートを設けたロングノーズ+ファストバックのスポーツカーらしいものでした。
インテリアはヤマハ製のウッドステアリングとインストルメントパネルが豪華な雰囲気を漂わせ、そのインストルメントパネルには大径のスピードメーターとタコメーターに加えて、電流/水温/油温/油圧/燃料と5つの小径メーターが連なっていて、グランツーリスモの機能美を醸し出していました。
ボディサイズは全長と全幅、全高が、それぞれ4175mm×1600mm×1160mmで、これは現在のトヨタ86と比べてもひとまわり以上もコンパクト。
とくに1160mmの全高は驚くばかりで、ボディ重量もわずか1120kgに収まっています。小さくてもその存在感は偉大ですらありました。当時、トヨタの最高級車だったクラウンのスーパーデラックスの販売価格は112万円でした。2000GTのそれは、倍以上の238万円でしたが、その開発の歴史や高度なメカニズム、そして何よりレースで鍛えたことによる伝説が、その価格設定の正当性をアピールしています。