半世紀の時を経た現在でも十分に通用するスタイリング
今ではトヨタグループの一員として、おもに大型のトラックやバス、そしてディーゼルエンジンのメーカーとなった日野自動車ですが、1960年代には小型乗用車も生産していました。それも他社以上に洗練されたスタイリングの乗用車でした。今回は、その日野自動車がオリジナル開発したコンテッサ・シリーズを振り返ってみます。
国内最大のライバルとなるいすゞとは同門関係の日野
明治の末期から大正にかけてガス・電気器具を生産していた東京瓦斯電気工業、通称“瓦斯電(がすでん)”は、第一次世界大戦時には航空機用のエンジンも生産していました。大正の末期から昭和初期にかけては航空機や鉄道車両、そして自動車などを手掛けています。
その自動車部と数社が合併して誕生したのが東京自動車工業(のちにヂーゼル自動車工業を経て現在のいすゞ自動車に)で、その特殊車両の生産を担当していた日野製造所が分離独立し誕生したのが、戦車などの軍需車輌の製造を行っていた日野重工業(現・日野自動車)でした。
終戦直後から積載量10t(最大15t)と物資の大量輸送を可能にした大型のトレーラートラックや、より多くの人員……96名から最大250名までが乗車可能なトレーラーバスなどを開発・生産しました。東京都八王子市にある同社の企業博物館、日野オートプラザには、こんなトレーラートラックやトレーラーバスのスケールモデルも展示されています。
こうして歴史を振り返ってみると、現在は国内で、大型トラックのトップ2となっているいすゞと日野ですが、じつは同門の関係にあったのです。ただし、いすゞが“瓦斯電”と合併した自動車工業株式会社へと連なる、1916年に設立された東京石川島造船所の自動車部をルーツと位置付けているのに対し、日野自動車では“瓦斯電”をルーツにしていました。
日野オートプラザのエントランスには瓦斯電製で、経済産業省から「近代化産業遺産」の認定を受けたTGE-A型トラックのレプリカが展示されています。ちなみに、TGEは東京瓦斯電気工業(Tokyo Gas Electric Engineering Co.)のイニシャルを繋げたブランドでした。
そんな日野自動車は、第二次世界大戦が終わると小型乗用車の生産に乗り出します。ただしそれまで大型トラックや軍需車輌は数多く生産してきましたが、小型乗用車の生産に関してはまったくの白紙状態から始めることになったのです。
そのために日野が選んだのは、ノウハウを持った海外メーカーから技術供与を受ける道でした。相手に選ばれたのはフランスのルノー公団。戦勝国とはいえ戦禍が酷かったフランスで、国の経済とルノー自身の復興を目指して国営化され“公団”を名乗っていました。しかし、乗用車の生産には長い歴史に裏打ちされた経験と実績があり、何よりも戦前から開発が進められていた小型車、ルノー4CVの存在も大きかったのだろうと考えられます。
ともかく、1953年に日野はルノー公団とライセンス生産の契約を結び、ルノー4CVのノックダウン生産から乗用車を始めることになったのです。日野製のルノー4CV、通称“日野ルノー”は、まだまだ非舗装路、というよりも悪路の多かった当時の日本の国情に合わせて、エンジンやサスペンションの強化・改良が続けられました。そして、国産部品の調達率(国産化率)も高められていき、生産開始から5年後の1958年には遂に完全国産化を達成したのです。
当時の道路事情に合わせて改良が続けられたこともあって、タクシー業界では“日野ルノー”は好評を博し、フランス本国で生産を終えたあとも1963年まで生産が続けられていました。
国産化した日野ルノーの後継は完全自主開発したコンテッサ
フランス本国のルノーは1957年に登場したドーフィンを、1961年まで生産を続ける4CVの後継車に位置づけ、さらにその後継車には1962年に登場したR8を充てていました。一方の日野自動車も1961年に発表したコンテッサ900、そして1964年9月にデビューしたコンテッサ1300を投入しています。それでは順に紹介していきましょう。
日野は、日野ルノーの生産を1963年まで続けていましたが、そのモデルライフ晩年の1961年には後継モデルとされる900を発表しています。これはルノーが4CVのモデルライフ晩年にドーフィンを登場させたのと似ています。そしてその基本コンセプトも似ていました。
すなわち、リヤに直4エンジンを搭載した4ドアセダンという4CVのパッケージは継承しながらも、ボディを少し大柄にしてキャビンとトランクのスペースを拡大しつつ4人乗りから5人乗りにコンバート。それに伴って増加した車両重量に対処し、エンジンの排気量を拡大してパフォーマンスを引き上げる、というものです。
900は実際のところ、ボディサイズと車両重量では4CVの全長×全幅×全高とホイールベース、車輌重量が3610mm×1430mm×1480mm、2100mm、560kgに対して3795mm×1475mm×1415mm、2150mmに拡大され、750kgと重くなっていました。
これに対してエンジンは、ともに水冷の直4OHVでしたが、排気量は4CVの748cc(54.5mmφ×80.0mm)から893cc(60mmφ×79.0mm)に拡大され、最高出力も21psから35psに引き上げられていました。
シャシーはモノコックフレーム/ボディで、サスペンションはともにコイルスプリングで吊ったフロント:ダブルウィッシュボーン式、リヤ:スイングアクスル式の4輪独立懸架を採用するなど基本メカニズムは継承されていました。ただし独自のメカニズムとしてリヤサスペンションにラジアスロッドが追加されるなどの強化策が施されていました。
コンテッサ900の誕生から3年後には上級モデルのコンテッサ1300が登場。これもルノーがドーフィンの上級モデルR8を投入したのと似ています。ただし、900とドーフィンのスタイリングが似ていたのとは対照的に、1300とR8のスタイリングはまったく違ったシルエットへと発展していました。
ともに角ばった3ボックスセダンでしたが、無骨な佇まいを見せるR8に対して1300は伸びやかなスタイリングが特徴。1300のデザインを担当したのは、新進のデザイナーとして売り出し中だったジョバンニ・ミケロッティで、同時期に登場したトライアンフ・ドロマイトなどと似たシルエットとなっています。
サイズ的にはさらに大きく、必然的に重くなっていて、具体的には全長×全幅×全高とホイールベースが4150mm×1530mm×1390mm、2280mmで車輌重量が940kgとなっていました。それにしても、対衝突のレギュレーションが関係している面はあるものの、現在のクルマからすれば羨ましいほどの軽量ぶりです。
一方エンジンに関しては1251cc(71.0mmφ×79.0mm)まで排気量が拡大され、最高出力も55psを発生していました。1300で大きなトピックとなったのは、4ドアセダンに加えて半年後には2ドアクーペが追加設定されたこと。また900と同様に適度にチューンナップされたSグレードが追加設定されていました。
シャシーはモノコックフレーム/ボディで、サスペンションはともにコイルスプリングで吊ったフロント:ダブルウィッシュボーン式、リや:スイングアクスル式の4輪独立懸架を採用するなど、基本メカニズムはコンテッサ900から継承されていました。
これは市販が実現されることはありませんでしたが、900にも1300にもミケロッティがデザインを手掛けた2ドアクーペ、900スプリント、1300スプリントGTが製作されていました。前者は日野オートプラザに収蔵されています。以前の取材で実車と対面しましたが、半世紀の時を経た現在でも十分に通用するスタイリッシュさに感動したことを覚えています。
コンテッサ900スプリントや1300スプリントGTの市販が実現していたら国内だけでなくスポーツカーの本場、欧米でも人気を呼んでいたのでは、と夢の世界に浸ってしまいました。