ル・マン24時間で4連勝を遂げている
世界最速のドライバーを決めるF1GPに対して、世界最強のクルマを決めるスポーツカーレースは、時に応じて車両規則が変遷してきましたが、つねに自動車メーカーが激戦を繰り広げてきました。今回は、そんなスポーツカーの世界選手権……当時はメーカー世界選手権で猛威を振るったフォードGTの活躍を振り返ってみました。
マスタングのセールスプロモーションの一環として始まったレース活動
フォードとモータースポーツの関係と言えば、コスワースを支援してF1GP用の傑作ユニット、DFVエンジンを誕生させたことが有名ですが、じつはスポーツカーレースでも戦いの最前線にいたことがありました。それは1960年代半ば、初代マスタングを売り出すにあたり、モータースポーツで企業イメージを高める必要があると経営陣が判断したのがきっかけとなりました。
彼らが最初にとったのは、大メーカーである彼らにとってもっとも簡単なプラン、活躍しているチーム/コンストラクターを買収する方法でした。具体的には当時のスポーツカーで王座を欲しいままにし、ル・マン24時間レースでも敵なしの活躍を見せていたフェラーリ(の実戦部隊であるスクーデリア・フェラーリ)を買収すべく交渉を始めました。
話は途中までは順調に進んでいきましたが、いざ調印という段階になって頓挫してしまいます。GPチームの指揮権をめぐって両者の思惑違いが発覚し、エンツォ・フェラーリが激高して交渉が決裂してしまったのです。そこでフォードが選んだ次善の策が、オリジナルのレーシングマシンを製作するプロジェクトでした。
もちろん、大メーカーではあっても、いや大メーカーだけに、フォード自身にはレーシングマシンを製作するノウハウなどありません。そこでイギリスのコンストラクター(レーシングカー製造者)であるローラ・カーズとジョイントして、フォード・アドバンスド・ビークル(FAV)を設立。アストンマーチンのマネージャーだったジョン・ワイヤーをマネージャーとして招聘し、ローラのエリック・ブロードレイなどが総力を挙げてオリジナルマシンを製作することになったのです。
FAVではローラMK6GTをベースにしたプロトタイプが1964年に完成し、フォードGTの名で発表されました。ただし40インチ(約1016mm)と低い車高が大きな特徴で、誰言うともなくGT40と呼ばれているうちに正式名称になったことと、実際の車高が40.5インチ(約1028mm)だったのは有名なエピソードです。
1964年に完成したプロトタイプは、ローラMK6GTと同様のツインチューブ・モノコックに4.2LのプッシュロッドV8を搭載していました。ただし、初号機は開発時間を短縮するためにアルミパネルではなくスチールパネルで成形したツインチューブを使用していたと伝えられています。
エンジンの出力は通常の376hpから24時間を走り抜くために再チューンされ、350hpとなっていました。FAVから同年のニュルブルクリンク1000kmで実戦デビューを果たしたフォードGT40(のプロトタイプ)は、予選2位と速さを示しましたが決勝ではレースの3分の1を走ったところで車両トラブルからリタイアしています。
大きな目標としていたル・マン24時間には3台体制で臨んでいましたが、まずはニュルブルクリンク1000kmの前に行われたテストデーでは、2台がクラッシュするという酷いデビューイベントとなってしまいました。そのために実戦デビューとなったニュルブルクリンクではシングルエントリーとなっていましたが、ル・マン24時間の本番は、当初の予定通り3台でレースウィークを迎えることになりました。
予選では速さをアピールするかのように2番手、4番手のタイムをマークしていましたが、やはり決勝ではトラブルに見舞われて3台揃ってリタイアとなってしまいます。アメリカのビッグ3で一角を占める大メーカーのフォードも、ル・マン24時間の厳しい洗礼を受けることになったのです。
リベンジに執念を燃やした結果、怒涛のル・マン4連覇
雪辱を期したフォードは、翌1965年のル・マン24時間にもエントリーしています。車輌は、前年も参戦していた、フォードGT40のマークIで4.7Lまで排気量アップしたエンジンに換装したモデルに加えて、新にロングノーズを採用し、エンジンも7リットルまで拡大したマークIIを投入。
またアメリカに本拠を置くレーススペシャリストのシェルビーにワークスチームの運営を一任するなど、ハードとソフトの両面で体制を強化していました。予選ではフィル・ヒルがドライブするマークⅡが前年の記録を9秒も短縮するコースレコードでポールポジションを奪います。
決勝でも2台のマークIIがトップを快走していましたが、スタートから3時間を過ぎるまでにはともにリタイアとなり、またしてもフェラーリ勢が上位を独占する結果に終わっています。しかし、フォードの悲願が達成される日がやってきます。
1966年のル・マン24時間では見事初優勝。しかも表彰台を独占して栄光に花を添える結果となったのです。このシーズンの主戦マシン、フォードGT40マークIIは前年モデルで特徴的だったロングノーズを短縮する大改造が施されていました。
また各部の耐久性能を見直して競争力が高められていましたが、何よりも、改良型のマークIIを3チームから8台と大量エントリーし、さらにバックアップとして市販されていたマークIを5台、計13台の物量作戦がモノを言うことになりました。
続く1967年にディフェンディングチャンピオンとしてル・マン24時間に臨んだフォードは、新開発のGT40マークIVを主戦マシンに据えていました。これはマークIIの発展モデルとして開発されたもので、エンジンはマークIIと共通でしたが、風洞実験を繰り返してカウルに大きく手を加えています。
ちなみに、飛び番となっているマークIIIはレース用ではなくロードカー仕様として開発されています。さて同年のセブリング12時間でデビューレースウィンを飾ったマークIVは、そのポテンシャルには折り紙付きとなっていましたが、ル・マンには4台が勢揃いした上に前年の優勝をマシンに改良を加えたマークII Bを3台、さらにGT40マークIを3台と、前年に引き続いて物量作戦を展開していました。
これに対してライバルのフェラーリも準備周到で、好バトルが期待されていました。予選ではブルース・マクラーレンがドライブするマークⅣがポールを奪います。決勝ではロニー・バックナムのマークII Bがまずは飛び出しますが、冷却系のトラブルで後退。代わってダン・ガーニー/A.J.フォイト組のマークIVがトップに立つと、あとはトラブルフリーでトップを快走します。終盤にはフェラーリ勢が追い上げてきますが、ガーニー/フォイト組がそのまま逃げ切って見事な連勝を飾っています。
続く1968年はレギュレーション変更によりスポーツカーのエンジン排気量が5L以下に制限されたためにマークIVは参加できず、フォードのワークスチームは参戦を控えることになります。代わってJWオートモーティブ・エンジニアリングが、限度いっぱいの5Lまでエンジン排気量を拡大したGT40でエントリー。
優勝候補の筆頭だったワークスポルシェが予選から上位を独占していましたが、決勝ではトラブルが続出してしまいます。熟成され尽くした感のあるGT40は、最後までトラブルフリーで走り切ってル・マン24時間に3連勝。さらに1969年にも前年のウィニングカーが連勝を飾り、フォードGT40は、シリーズとして見事な4連勝を飾ることになりました。