軽量化とエアロダイナミクスを追求した「トヨタ・スポーツ800」
国産車で最初に登場したスポーツカーには諸説ありますが、エンジンのパフォーマンスよりも、車両重量と空気抵抗の低減を徹底的に追求したモデルは、「トヨタ・スポーツ800」が最初にして、おそらくほぼ唯一ではないでしょうか。経済性を追求した初代「パブリカ」の空冷のプッシュロッド水平対向2気筒という、当時としても古典的なスペックから見事なパフォーマンスを生み出したトヨタ・スポーツ800とは?
戦後復興とともに日本の自動車産業も急成長していた時代
第二次世界大戦で敗戦国となったわが国は、自動車産業を整備発展させて戦後復興のけん引役とすることを決断し、関連の法整備を急ぐ一方で軽自動車規格を制定。1955年には通商産業省(現・経済産業省)の「国民車育成要綱案」、いわゆる「国民車構想」が報じられています。また、新たに発足した自動車工業会がモーターショーを開催するなど、モータリゼーションの普及に向けて機運が高まっていきました。
58年には富士重工業(現・SUBARU)が軽乗用車の王者ともなる「スバル360」をリリース。さらに61年にはトヨタが小型乗用車の真打となる「パブリカ」をリリースしています。この2車がそれぞれのクラスのリーダーとなって、またそれぞれにライバルのモデルが登場、結果的に乗用車の普及率が高まっていきました。
乗用車が普及してくると、次なるステップとしてまず挙げられるのはスポーツカーの登場です。すでに52年には国産車として戦後初のスポーツカー、「ダットサン・スポーツDC-3型」が登場し、59年にはその後継モデルの「ダットサン・スポーツS211型」に移行。さらに61年には国産初の本格的スポーツカー、2座(当初は運転席の後ろに横向きのシートがある3座仕様だった)オープンの「フェアレディ1500」が日産から登場していました。また63年には新規参入組のホンダから、ライバルとなる「S500」が登場し、すぐさま「S600」、「S800」へと発展していきます。
より多くの人にスポーツカーの楽しみを提供するためパブリカをベースに選択
日産と国内トップの座を争っていたトヨタでもスポーツカーへの機運が高まってきていましたが、そのアプローチは好対照でした。日産(ブランドとしてはダットサンでしたが)のフェアレディが、ブルーバードのシャシーにセドリックのエンジンを搭載したのに対して、トヨタはエントリーモデルだったパブリカの主要コンポーネントを使ったパッケージとなっていました。日産の手法は「1クラス軽量コンパクトなボディに、1クラスハイパワーなエンジンを搭載する」というスポーツカー造りのセオリー通り。トヨタのそれも「軽量化と空気抵抗の低減を徹底的に追求する」という、これもまたスポーツカー造りの永遠のテーマでした。
何よりもエントリーモデルのパブリカをベースに、というところからは、トヨタの「より多くの人にスポーツカーの楽しみを提供できる」との想いが伝わってきます。後でも触れますが、4年前の1961年に登場したパブリカの価格は38.9万円。これに対して、トヨタ・スポーツ800の価格は59.5万円で約1.5倍となっています。
現在、トヨタのエントリーモデルとなっている「パッソ」のベースモデルは126.5万円なので、その1.5倍、約190万円で2シーターのオープンスポーツが販売されているとしたら……。これはもうヒット間違いなしですよね。ちなみにホンダの「S」シリーズは、水冷の直列4気筒ツインカムという、まるでGPマシンのようなスペックのエンジンを搭載していましたが、これもまたトヨタ・スポーツ800とは対極にあったスポーツカーでした。