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「街で知り合った直後に美女と愛車交換」「納車にワインを用意」! いまじゃ考えられないバブル時代のカーライフ

マセラティ・ビトゥルボとオーナー

ガイシャと美女に囲まれたバブル時代の百花繚乱なカーライフ

 バブル前夜、そしてバブル真っただなかの’80年代後半から’90年代にかけて、東京で暮らしていた筆者もまた、バブルの波に乗ったひとりだった。当時、モータージャーナリストとして売り出し中で、それまでの日産フェアレディ280ZXから、自身初の輸入車だったVWゴルフIIに乗り替えて以来、輸入車街道をまっしぐらに走った。女性誌で“クルマ紹介with読者モデル”の連載を持つほか、伝説の男性誌・ホットドッグプレスでクルマの記事やドライブデート記事を担当。そして1986年創刊の外車専門誌GENROQの創刊編集スタッフなども経験していた。

いまでは考えられない美女と1泊2日の愛車交換

 ゴルフIIの次に手に入れたのは、バブル時期に「六本木のカローラ」と呼ばれたE30型BMW325iスポーツパッケージだった。このころの男女の関係は、今では信じられないほどフランクで、ある日、クルマ好きなら誰もが気になっていたメルセデス・ベンツ190Eと青山通りのブラッセリ―前で遭遇。BMWをそのすぐ後ろに止め、ブルーブラックの190Eをジロジロ眺めていたら、ブラッセリ―から出てきたオーナーらしき女性と目が合う。じつに妙齢の美女である。

 そして声をかける。「このブラックの190E、カッコいいですね」と。『ありがとう、そのBMWあなたの? じつは、本当は真っ赤な3シリーズが欲しかったの……」。それで、瞬間的に意気投合。ふたりでブラッセリ―に戻り、クルマ談義に花を咲かせたのである。

 ここからが今では考えられないのだけれど、そのあと美女とクルマを交換。明後日の同じ時間にブラッセリーで待ち合わせ、クルマを元に戻すという愛車の交換を行ったのである。もちろん2日後、ちゃんと彼女はそこ来てくれて、無事BMWは戻ってきた。ずいぶん年上ではあったけれど、その後、たしか付き合った記憶がある。いまなら、いくら素敵な女性だとしても、アカの他人とクルマを交換するなんて、乗り逃げされる可能性もあるワケであり得ない話である。だが’80年代は男女の関係もかなりゆるく、好景気だったこともあってか金銭的にも精神的にも余裕があったからこそのエピソードである。

ヴィンテージ赤ワインで祝ったマセラッティ・ビトゥルボの納車

 そのBMW325iの次の愛車が、ある意味でボクの運命を変えた一台。ダークスモーキークォーツに塗られたマセラティ・ビトゥルボだった。当時は東京・世田谷のガレーヂ伊太利屋というディーラーが日本の輸入代理店で、敷居の高さもさることながら、サービスもホストクラブみたいに充実していた。そのクルマがイタリアのサヴォーナという港から船積みされて、日本の大黒ふ頭にやってくるまでの50日(うろ覚えです)を綴る、現在も発行されているドライバー誌のなかで「マセラティを待つ50日」という連載を持っていた。

 すでにフィアット・ウーノ(CVT)の所有経験があり、当時、フィアットの輸入代理店は東京・世田谷のチェッカーモータースであったが、ありがたいことにカタログのコピーを書く仕事までいただいたこともあった。もちろんマセラッティは同じイタリア車でもフィアットとは違い特別な存在。自分のビトゥルボが届くことにワクワクし、心待ちにしていた。バローロというヴィンテージ赤ワインまで用意して……(下のマセラティの本革製車検証ケースとキー、バローロの写真は「ぼくたちの外車獲得宣言」の巻頭カラーページより)。

ビトゥルボの所有がきっかけでクルマと恋愛をテーマにした著書を出版

 どうしてマセラティがボクの運命を変えたかと言えば、そうしたクルマを所有し、あちこちの自動車専門誌に記事を書いていたのを知った某出版社が、おそらく日本で初めての外車のバイヤーズガイドに特化した単行本を出さないか……ということになったのだ。それが、1988年6月に出版された初の著書「ぼくたちの外車獲得宣言」。クルマを”恋愛対象に見立てる”のがテーマだった。

 当時、まだ日本での輸入車、いやガイシャの販売台数は6万8357台(1986年)でしかなかったところ、翌年にはいきなり9万7750台まで躍進。空前のガイシャブームが到来した直前のタイミングだったのである。かの徳大寺有恒さんから連絡があり、初めてお会いすることができたのも、その単行本がきっかけだったと言っていい。『キミ、外車ばかり乗っていないで、国産車もしっかり勉強しなさい』と、ホテルのレストランでアドバイスいただいたのも、ガイシャばかりの仕事をしていた当時のボクにとって、目を覚まさせてくくれたというか、とても有難いお言葉だった。

著書の印税を頭金にメルセデス・ベンツ300Eを購入

 ’80年代後半はその勢いでもうイケイケの人生だった。自動車雑誌の仕事の現場でも、バブルに乗ってか予算があり、クルマの撮影にモデルさんやスタイリストさんを使うことも多かった。そこで知り合ったひとりの女性スタイリストさんとも意気投合。よく遊びに行く仲になり、ある日、「青山さんのマセラティを譲ってほしい」ということになった。

 ちょうどメルセデス・ベンツEクラスが欲しいと思っていたころで、すんなり契約成立。もちろん素敵な女性だからといって、おじさんはあげたりしません。ちゃんとお金はいただきました……。そしてヤナセでメルセデス・ベンツ300Eを購入。当時、年に何冊か単行本を書いていてその印税を頭金にして。

 じつはあれほど憧れていたマセラティを売却した理由はいくつかあって、ひとつ目は冬、エンジン始動時にツインキャブレターの機嫌を損ね、一発でエンジンがかからないと、その日は稼働できず。冬はほかにクルマもあったので、ガレージに預けっぱなしという有様だったのだ。

 また、当時はファッション誌の仕事もあり、モデルさんを隣に乗せる機会も多かったのだけど、バブル期の女子にマセラティは通用せず。ほとんどの子は、ガイシャと言えばベンツかBMW、ポルシェだったのである。インテリアは妖しいイタリア貴族的な豪華さがあり、エンジンの回転をあげればまさに壮大なオーケストラが一斉に楽器を鳴らすような快音を響かせるのだが、こちら全身アルマーニでも、スリーポインテッドスター(メルセデス・ベンツ)やプロペラマーク(BMW)のブランドには到底敵わなかった……。

ガイシャ以外にもロードスターや愛犬用にオデッセイも所有した

 もちろん日本車にも乗った。例えば1989年に登場したユーノス・ロードスター(現在のマツダ・ロードスター)にも熱狂していた。そのころは驚愕の静粛性で世界の自動車メーカーを震撼させたトヨタ・セルシオ、そしてホンダのスーパーカーNSXが発売され、日本車にも歴史に残る素晴らしいクルマ、名車が続々と登場した時代でもあったのだ。それをリアルタイムで経験、試乗できたのもモータージャーナリストならではで幸運と言うしかない。

 そんな、バブルの波に乗ったガイシャ生活は、1994年にいったん終焉。理由はバブルが崩壊したからではない。その年、念願のゴールデンレトリーバーを飼うことになり、大型犬の乗車ために2代目オデッセイ・アブソルートV6を購入。久しぶりの国産車であったが、乗り心地や操縦性は文句ナシ。「メルセデスから乗り換えても不満のない上質な乗り心地と、ミニバンらしからぬスポーティな走りに大満足」と、あちこちに試乗レポートを書いたぐらいである。

 ’80年代中ごろから’90年代初頭にかけて本当に楽しく快楽的な日々を(素敵なクルマと女性たちと!?)過ごすことができた。あんな時代は、もう二度とやってこないだろう。しかし、その時代を若くして経験できたことは、いまでも鮮明に記憶に残る、いい思い出である。

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