持てる技術を注ぎ込んでレースでの伝説を重ねていった
このようにして生まれたハコスカGT-Rだけに、レースでの活躍ぶりは見事でした。デビューレースこそ、若いプライベーターの手に委ねられたGT-Rに対して、それまで王座に就いていたトヨタ1600GTは、事実上のトヨタ・ワークスだった高橋晴邦選手がドライブ。GT-R勢は予選こそ上位を独占していたものの、決勝では高橋選手に翻弄された格好で2位チェッカーに終わっています。
ただし、GT-Rにスリップストリームにつかれることを嫌った高橋選手がストレートで何度か「走路変更」したのが「走路妨害」と判定されて降着。GT-Rを駆る篠原孝道選手がいわくつきの優勝を飾ったことも、GT-Rの栄光の伝説のなかでは彩りのひとつにすぎません。そしてこの篠原選手の1勝が、4ドア・セダンから2ドア・ハードトップへと移行しながら50連勝(数字には諸説あり)を飾ることになったのです。
もう少しだけ、GT-R伝説を紹介しておきましょう。デビュー戦こそドライバーの制約があって日産ワークスドライバーの参戦は見送られていましたが、それ以降はワークスドライバーが積極的に参戦するようになります。そして全日本ドライバー選手権のTIIクラスでは、1971年に高橋国光選手が、4ドア・セダンから2ドア・ハードトップに変わった71年には長谷見昌弘選手がそれぞれチャンピオンに輝き、日産ワークスとして2連覇を果たしています。
ロータリー・エンジン(RE)を搭載するマツダ勢が、着々と競争力を蓄えてきて72年には好勝負の連続となりましたが、同年のシーズン終盤には、完全に勝負あった、という状態となってしまいました。新たなチャレンジャーが王者を倒すのは勝負の世界の倣いではあるのですが、持てる技術の総てを注ぎ込んで勝負に挑み続けたハコスカGT-Rと日産ワークスのドラマは、今なお語り継がれています。