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すべては「レースで勝つため」! 伝説の始祖「ハコスカGT-R」のすごさの秘密

1969年に生まれたPGC10型スカイライン2000GT-R

まったく新しいエンジンは最新技術を盛り込んで設計開発

 世界最強のハコ車レースを謳うSUPER GTシリーズにおいて、今シーズンから日産の主戦マシンの座をZに譲った格好のGT-Rですが、アスリートやファイターのように限界を感じて引退したわけではありません。いまにしてもなおGT-Rのパフォーマンスの高さは明らかです。その源を遡っていくと、源流である「ハコスカGT-R」に辿りつくことになります。それではハコスカGT-Rは何が凄かったのか。分析しつつ、その来し方を振り返ります。

GC10の上級モデルではなく、S54の発展モデルがPGC10

「ハコスカGT-R」の愛称でおなじみのPGC10型日産スカイラインGT-Rは、GC10型日産スカイライン2000GTの上級モデルではなく、プリンス・スカイラインGT(S54型)の後継モデルです。と言ってもこれではまるで禅問答なので、少し嚙み砕いて紹介しておきましょう。

 プリンス・スカイラインGTは、1964年に行われた第2回日本グランプリのGTレースで勝つために生みだされたレーシングカーを転用したロードカーです。GTレースに出場するためには100台が生産されて車両公認を受ける必要があり、そのために生産された100台は、レース参加希望者を含めて即座に完売となりますが、レースでの活躍から予想外の購入希望者が現われ、結果的に誕生したのが2000GT(S54B-II)です。

 さらに2000GT用に用意した3連装のウェーバー製40φDCOEキャブが足りなくなったからとも噂されましたが、それをシングル装着の2バレルキャブに変更した2000GT-A(S54A-Ⅱ)などにくらべると、技術者の意識がとても高かったことは言うまでもありません。ちなみに、2000GT-Aが登場したのに合わせて、それまでの2000GTは、2000GT-Bと車両名を変更しています。

 S54系で展開されたのと同様な違いが、次期モデルとなったC10系でも見られることになりました。スカイラインとしては3代目となるC10系は、1968年にフルモデルチェンジを受けて誕生しています。最初に登場したのは1500の4ドア・セダンで、2代目のS50でも採用されていたプリンスが開発したG15型1.5L直4エンジンを搭載していました。

 サスペンションに関してはS50系がダブルウィッシュボーン/リーフリジッドだったのに対して、C10系ではリヤのリーフリジッドはそのままに、フロントサスペンションが、ジオメトリーの設計自由度の高いダブルウィッシュボーン式からマクファーソンストラット式に変更されていました。日産の主要モデルであるブルーバードやローレルに倣ったものだったのでしょうが、これを不満に思うプリンスファンは少なくなかったようです。

 1500の登場から2カ月後には2000GT(GC10型)が登場しています。こちらの最大のトピックは、エンジンがプリンスで開発したG7ではなく日産で開発した基幹ユニット、2L直6のL20エンジンでした。最高出力がS54A-IIと同様に105psだったこともあって、誰言うともなく「これは2000GTの後継ではなく、2000GT-Aの後継だ」と評されるようになりましたが、それも日産にとって想定内でした。2000GTの登場から5カ月後の1969年2月、2000GT-Bの後継を名乗るに十分なホットモデルが登場します。2L直6ツインカム24バルブのS20エンジンを搭載したPGC10型2000GT-R、ハコスカGT-Rの誕生です。

単なるメカニズムではなく、そこに至る意識の高さがすごかった

 PGC10型スカイラインGT-R、いわゆるハコスカGT-Rの最大の特徴は、やはり2L直6ツインカム24バルブのS20エンジンを搭載したこと。ただしそのメカニズムがすごいのではなく、それを導入しようとした意識の高さこそが評価されるべきでしょう。

 登場から半世紀以上が経ち、技術の進化は留まるところを知らないかのようです。ツインカムも気筒当たり4バルブも、今では軽トラックにも搭載されています。でも、半世紀前にはまだプッシュロッドで作動させるOHVが大勢を占め、OHCエンジンを搭載したモデルは、カタログにおいてその先進性をアピールしていたような時代でした。そんな時代に、レーシングカー用に設計していた純レースエンジンのGR8ユニットを、ロードユースに適するよう設計し直してS20ユニットを誕生させた辺りなどは、やはり技術オリエンテッドなプリンスのクルマならでは、と言ったところでしょう。

 ちなみに、多くの記事でS20エンジンがGR8をデチューンした、との表記が見受けられますが、実際には一から作り直したようなもの。カムの駆動がタイミングをより正確に伝えるギヤトレーンから、騒音を低減させるためにチェーンドライブに変更してあったり、ボアは80.0mmφでGR8とS20で共通ですがストロークはGR8の63.0mmに対して、S20は62.8mmと0.2mmだけ短く、結果的に排気量もGR8の1996ccに対してS20は1989ccと7ccだけ小さくなっています。

 またGR8がドライサンプ式であるのに対してS20ではウェットサンプ式となっています。その一方で、4バルブによる多球形状燃焼室など、GR8で蓄積された技術が盛り込まれているのもまた事実です。いずれにしてもまったく新しいエンジンを、その時代の最新技術を盛り込んで設計開発した、ということこそが、何よりもすごいことだと言ってよいでしょう。そしてそのすべてがレースに勝つため、だったのですから。

持てる技術を注ぎ込んでレースでの伝説を重ねていった

 このようにして生まれたハコスカGT-Rだけに、レースでの活躍ぶりは見事でした。デビューレースこそ、若いプライベーターの手に委ねられたGT-Rに対して、それまで王座に就いていたトヨタ1600GTは、事実上のトヨタ・ワークスだった高橋晴邦選手がドライブ。GT-R勢は予選こそ上位を独占していたものの、決勝では高橋選手に翻弄された格好で2位チェッカーに終わっています。

 ただし、GT-Rにスリップストリームにつかれることを嫌った高橋選手がストレートで何度か「走路変更」したのが「走路妨害」と判定されて降着。GT-Rを駆る篠原孝道選手がいわくつきの優勝を飾ったことも、GT-Rの栄光の伝説のなかでは彩りのひとつにすぎません。そしてこの篠原選手の1勝が、4ドア・セダンから2ドア・ハードトップへと移行しながら50連勝(数字には諸説あり)を飾ることになったのです。

 もう少しだけ、GT-R伝説を紹介しておきましょう。デビュー戦こそドライバーの制約があって日産ワークスドライバーの参戦は見送られていましたが、それ以降はワークスドライバーが積極的に参戦するようになります。そして全日本ドライバー選手権のTIIクラスでは、1971年に高橋国光選手が、4ドア・セダンから2ドア・ハードトップに変わった71年には長谷見昌弘選手がそれぞれチャンピオンに輝き、日産ワークスとして2連覇を果たしています。

 ロータリー・エンジン(RE)を搭載するマツダ勢が、着々と競争力を蓄えてきて72年には好勝負の連続となりましたが、同年のシーズン終盤には、完全に勝負あった、という状態となってしまいました。新たなチャレンジャーが王者を倒すのは勝負の世界の倣いではあるのですが、持てる技術の総てを注ぎ込んで勝負に挑み続けたハコスカGT-Rと日産ワークスのドラマは、今なお語り継がれています。

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