日本のモータースポーツに大きな足跡を残した「国さん」
今年3月16日、国内モータースポーツのシーズン開幕直前に、SUPER GTで活躍する「チーム国光」の総監督だった高橋国光さんが亡くなりました。ホンダのワークスライダーとして2輪ロードレースのワールドGPで優勝を飾り、また4輪レースに転向してからも天才肌のトップドライバーとして活躍。1999年に現役を引退したあとは、自らが興したチーム国光の総監督としてSUPER GTでも王者となるなど、さまざまな立場からモータースポーツで活躍され、レース関係者のみならず多くのファンから「国さん」の愛称で親しまれてきました。そんな国さんの足跡を辿ります。
初レースの少年がセニアライダーを打ち破る
まだ第二次世界大戦の開戦前だった1940年(昭和15年)に、東京都小金井市(当時は東京府北多摩郡小金井町)で生まれた国光少年は、18歳のときに2輪のロードレースにデビューしています。
そのデビューっぷりがすごかった。その舞台となったのは第2回浅間火山レース。1963年に鈴鹿サーキットが完成するまで、国内最高峰のレースとされていたロードレースです。BSAゴールドスター(350ccクラスの単気筒)を駆った国光少年は、混走となり3分前にスタートしていった500ccクラスの各車(19台中17台)を、150ccの排気量差や、3分間の時差スタートを跳ね返してゴール、350ccクラスでの優勝はもちろん、総合成績でも3位で走り切ったのです。
翌59年の第3回浅間火山レースでは、アマチュア向けに併催された第2回全日本モーターサイクルクラブマンレースの500ccクラスで優勝し、その「ご褒美」としてメインレースの500ccクラスに参加しすることに。そのレースには国光少年とは同学年ながら16歳でレースデビューし、ヤマハのワークスライダーとして活躍していた伊藤史朗選手がプライベーターとしてBMWで参戦していました。
かたやヤマハのワークスライダー、此方実戦3レース目のアマチュアという同学年対決は、BMW500とBSA500の対決ともなりましたが、スタートしてみるとまったくの互角で激しいデッドヒートを繰り返します。最終的にはラストラップで5分01秒という、コースレコードとなるベストラップをマークした伊藤選手が優勝。国光少年はわずかに及ばず2位入賞となりましたが、ふたりのデッドヒートは2輪ロードレースの黎明期における名勝負として、いまも語り継がれています。
WGP西ドイツGPで21歳にして初優勝
この活躍がホンダの目に留まり国光少年は、有望なアマチュアから一気にホンダのワークスライダーに格上げとなりました。1959年の9月にホンダへ入社、テストライダーとして腕を磨いたあと、翌60年の7月に2輪ロードレースの世界選手権(WGP)、シリーズ第3戦の西ドイツGPでWGPデビューを果たすことになりました。
250ccクラスでの参戦で見事6位入賞を果たすのですが、並み居るGPライダーに次々にパスされ、「自分は井の中の蛙だった」ことに気付かされると、そこから努力を重ねて猛練習を続けることになりました。そしてその努力が実り、2レース目には5位、3レース目には4位と、表彰台まであと一歩に迫ると、翌61年の西ドイツGPではチームメイトのジム・レッドマンを従えて初優勝を飾ることになりました。
高速コースとして知られるホッケンハイムでの優勝は、ホンダのGPマシンのパフォーマンスによるもの、との過小評価もありましたが、ストリートサーキットでテクニカルコースとして知られるダンドロッド・サーキットで開催されたアルスターGPの125ccクラスで優勝したことで、彼自身のパフォーマンスに対する評価も鰻登りとなったようです。
マン島TTレースの事故で瀕死の重傷
ということで、ここからは「国光少年」ではなく「国さん」として話を続けます。翌1962年シーズンには125ccクラスをメインに戦うことになった国さんは開幕戦のスペイン、第2戦のフランスと2連勝を飾り、ポイントリーダーとして第3戦のマン島TTレースを迎えます。
トレーニングから好調だった国さんはユニオンミルズ・コーナーを減速せずに走っていました。通常ならブレーキングしてギヤを1段落として回るコーナーでしたが、「ゾーン」に入っていた国さんはノーブレーキで回っていました。そして予選ではポールを奪います。しかし決勝では……。スタート直後ということでマシンもタイヤも、そして国さん自身も、まだまだ暖まっていなかったのでしょう。それとも「ゾーン」に入ってなかったからでしょうか、オープニングラップのユニオンミルズで転倒し、国さん自身もマシンから放り出されて頭や腰を打つ瀕死の重傷を負ってしまったのです。