2輪から4輪にコンバート、日産ワークスの三羽ガラスに
マン島でのアクシデントでは、幸いにも命に別状はなく、1年後にはライダーとして復帰した国さんですが、このころからホンダは外国人ライダーを主体にレースを戦う方針へと変わって行きました。おもにテストライダーとして走っていた国さんでしたが、1962年には鈴鹿サーキットが完成し、翌63年には4輪による第1回日本グランプリが開催されていて2輪から4輪へという流れができつつありました。
実際、日産ワークスではドライバーを揃えるために2輪のライダーを集めていました。そしてワークスチームのボスである難波靖治さんがホンダGPチームの河島喜好監督に相談し、移籍ではなく2輪ライダーの「貸し出し」というスタイルで、国さんは田中健二郎、北野元両選手とともに日産から4輪デビューを果たすことになりました。その後日産と正式に契約した国さんは追浜ワークスに籍を置き、北野・黒澤元治両選手とともに日産ワークス三羽ガラスと呼ばれるようになりました。
「ハコスカGT-R」を駆って連戦連勝
日産R380~381~382のような純レーシングカーからツーリングカーまで、さまざまなクルマをドライブし、無数の勝利を飾っています。1969年にデビューしたスカイラインGT-R、いわゆる「ハコスカGT-R」では、70年の全日本ドライバー選手権T-IIクラスで連戦連勝でチャンピオンを獲得しました。
また翌71年には、2ドアハードトップに移行した「ハコスカGT-R」で活躍します。全日本ドライバー選手権T-Ⅱクラスでは後輩となる長谷見昌弘選手がチャンピオンに輝いていますが、富士GC前座のツーリングカーレースでは大活躍。とくに1972年の3月に行われた富士300kmスピードレースのスーパーツーリングカーレースではヘビーレインのコンディションのなか、GT-Rにとって記念すべき50勝目(勝利数には諸説あり)となるメモリアルウィンを飾っています。
しかしその一方で、何故か大舞台では不運なトラブルやアクシデントに巻き込まれることも多く、ビッグタイトルとは縁がなかったことから国さんは「無冠の帝王」と呼ばれていました。
目先の勝負を捨てライバルを救出するスポーツマンシップ
日産ワークスに籍を置きながら富士グランチャンピオン(GC)レースや全日本F2選手権などにも参戦するようになった国さんは、必ずしもベストなマシン、ベストな体制でレースに臨めたわけではありませんが、トップドライバーに相応しい活躍を見せていました。そしてドライバーとしてだけでなく、ひとりの人間としての優しさを見せたレースがあったのです。
それは1977年の3月に鈴鹿サーキットで開催された全日本F2000選手権の開幕戦、鈴鹿ビッグ2&4レースでの出来事でした。星野一義選手に次ぐ予選2番手でフロントローから飛び出した国さんは、序盤は星野選手の後方で隙をうかがっていましたが、星野選手がアンダーステアに苦しんでいると分かると猛チャージ。10周目に入るストレートでスリップから抜けると、1~3コーナー(改修された現在は1~2コーナー)を大外から回ってトップに立ったのです。さらに30周レースも残り2周足らずとなった29周目のスプーン立ち上がりで、周回遅れにならんとしていた竹下憲一選手がクラッシュしたのを見届けると、コースサイドにマシンを停めて竹下選手の救助にあたったのでした。
ポストとポストが離れていて、オフィシャルの救助には時間がかかると考えた国さんのとっさの判断でしたが、後続の各車も国さんに倣ってコースサイドにマシンを停め、ドライバー全員が力を合わせて竹下選手を救助することができたのです。審査委員会は赤旗を提示してレースを中断しそのままレース終了。28周終了時点での成績により国さんの優勝が決まったのです。国さんの人柄を示す、心温まるエピソードでした。
ちなみに、無冠の帝王と呼ばれていた国さんですが、その翌年、1978年には全日本F2選手権の最終戦となったJAF鈴鹿グランプリで中嶋悟選手と遠来のリカルド・パトレーゼ選手を従えてトップチェッカー。これで無冠の帝王の不名誉なタイトルを返上することになりました。
次回は、日産を離れてフリーのレーシングドライバーとして活動を続けた時代を振り返ります。