ターニングポイントとなる場面で女性が活躍した
メルセデス・ベンツの歴史を紐解いていくと、黎明期の女性たちが重要な役割を担っていた事に必ず気付かされる。その輝かしいメルセデス・ベンツの女性たちにスポットを当てて紹介しょう。
「ベルタ・ベンツ」夫人こそが女性ドライバーの元祖
自動車誕生の幕開けは、1886年の1月29日。つまり、Karl Benz(カール・ベンツ)が当時のドイツ帝国特許局(ベルリン)に、自ら発明した「世界初のガソリンエンジン付き自動車(3輪車)」の特許を登録した日であり、そして特許No.37435を取得した。従って、このカール・ベンツの3輪車は、Patent Motor Wagen(パテント・モトール・ヴァーゲン)と呼ばれている(マンハイム)。
1886年9月5日に、このベンツ3輪車・パテント・モトール・ヴァーゲンの姿が公に発表され、世間に広く知れ渡った。例えば、マンハイムの地方紙・Generalanzeigar(ジェネラル・アンツァイガー)は、「今朝、環状道路において、ベンツ&カンパニー・ライン・ガスエンジン工場が発表した、リグロインガスを動力とする3輪車のテスト走行が行われた」と報じている。しかも、今後訪れるであろう、良き時代の重要性を説いた。
しかし、カール・ベンツの3輪車の成功は、何事にも熱心でパワフルな彼の妻・ベルタ夫人に帰すところが大きかった。時は1888年、8月5日の美しい青空が広がったある朝、午前5時カール・ベンツが眠りについているころ、ベルタ夫人とその息子たち、Eugen(オイゲン・15歳)とRichard(リヒャルト・13歳)が、この3輪車を仕事場の納屋から運び出した。
すでに3作目を数えるこの3輪車は、いくぶんかエンジンやふたつのギヤの力が増強されていた。じつは、この3人はマンハイムからプフォルツハイムの祖母を訪ねる予定であったが、その距離はなんと180km。しかも、当時の道路は馬車しか走ったことのない道しかなかった。
最初は、すべて順調に運ぶかのように思われたが、カタカタと音を立てて進む、わずか1.5馬力の3輪車は、途中の標高300mほどの小高い丘の上り坂を行くには、非常に困難であることが判明。次男のリヒャルトにハンドルを握らせ、ベルタ夫人と長男オイゲンのふたりが後ろからあと押しをし、逆に下り坂では、弱々しい圧力で後輪に直接作用する木製のブレーキロックでは、無事に坂を下るのは不可能に思われた。
またドライブ途中、駆動ベルトがパチンと切れてしまったときには、地元の職人が修理してくれた。燃料が通るラインが詰まってしまったときには、ベルタ夫人が自分のかぶっていた「帽子のピン・ハットピン」を使って修理。発火装置ケーブルが擦り切れて絶縁しまったときには、「靴下留めのゴム・ガーターベルト」を使って応急処置をした。
職人の妻として、トラブルに対処するベルタ夫人の発想はじつに素晴らしいものだ。このように過酷な長距離ドライブであったが、夕刻、3人は口裏を合わせて、ひどく心配しているカール・ベンツに、「旅は順調です」と電報を打った。そして次の日に、この3人一行は無事帰路に着いた。
このことがカール・ベンツの励みとなり、妻のベルタ夫人の結果報告に挙げられた「問題点」を次の自動車開発へ向けた課題として、次々に解決していった。例えば、上り坂でも力強く登れるようにするために第3のギヤを増やすなど、トランスミッションを備える必要性、またエンジンの冷却性能の向上、ブレーキ性能の強化など、解決すべき箇所がより具体的になった。そして、カール・ベンツは、改良の余地が解れば解るほど創作意欲を燃やし、開発に没頭する技術者であり、丁寧な仕上げを完遂することのできる職人であった。
ところで、あまり知られていないことだが、じつは世界で最初に長距離ドライブしたのは、このベルタ夫人だ。つまり、このベルタ夫人こそが、「女性ドライバーの元祖」といえる。
「ルイーズ・サラザン」はビジネス・ウーマン
ベルタ夫人の活躍と時を同じくして、経済面でその手腕をいかんなく発揮したのも、また女性だった。名前はルイーズ・サラザン。フランスでゴットリーブ・ダイムラーの業務を引き継いだのが、正しく彼女である。
ところで、もうひとり、世界初のガソリン・エンジン付き自動車(4輪車)を発明したのが、Gottlieb Daimler(ゴットリーブ・ダイムラー)である。彼は天才技師Willhelm Maybach(ヴィルヘルム・マイバッハ)の協力により、カンシュタットで軽量高回転エンジンの構想を推し進めた。
時は1883年12月16日、初めてのガソリン・エンジンの開発に成功しシンプルなホットチューブ・イグニッションを備え特許も取得した。ダイムラーとマイバッハの協力により開発されたこの最初のエンジンは、1885年11月10日に初めて2輪車に搭載された。「世界初の2輪車」、今で言うオートバイである。
そして、遂に1886年の秋、最初の4輪車にこのエンジンが載せられ、「世界初のガソリン・エンジン付き自動車」の誕生となった(カンシュタット)。ダイムラーは、車体を馬車のコーチビルダーに発注したと記録されている。この4輪車は、Daimler Motor Kutsche(ダイムラー・モトール・クッシェ=ダイムラー・エンジン・馬車)とも言われている所以だ。
さて話を戻すと、もともとダイムラー製のエンジンのフランスにおける販売は、ゴットリーブ・ダイムラーと、ダイムラーのドイツ(Deutz)社時代からの親友であった弁護士のエドワール・サラザンとの友情によりスタートした。
エドワールは、ダイムラーのその後の発明品のすべてをフランスで取り扱う権利を、たった1回の握手だけで取得した。しかし、彼はその後、病に倒れ1887年に他界してしまう。エドワールは臨終の床で、妻であるルイーズに「ダイムラーの自動車をフランス中に広める事業を引き継ぐように」と言い残した。
ルイーズは遺言をそのまま実行し、女性がビジネスパートナーとして引けを取らない事を実証(のちに自動車エンジニアのエミール・ルヴァソールと結婚)する。そして、技術好きなフランスにおいて、この新しい乗り物を広く普及させることに貢献。この様にしてフランスから自動車の世界制覇が始まった。
メルセデスの名前の由来となった少女「メルセデス・イエリネック」
現在のメルセデス・ベンツグループ社製の自動車には、すべてメルセデス・ベンツの名が冠せられている。当時のダイムラー社の強力な販売会社を経営する、エミール・イエリネックの愛娘「メルセデス」の名を取ったものだ。彼はオーストリアのビジネスマンであり、フランス・ニースでオーストリア・ハンガリー帝国の領事もしていた。
メルセデスの商品名は1900-1901年ごろに作られ、1902年、正式に商標名として登録。そして、1926年ダイムラー社とベンツ社の合併後、その商品名のすべてはメルセデス・ベンツと名付けられ、現在に至っている。
オーストリアの生まれで、実業家でもあるエミール・イエリネックは、自動車にも非常に興味を持っていた。居を構えていたバーデン(ウィーン近郊)やニースの人々をはじめ、果てはドイツ・カンシュタットの当時のダイムラー社にまで、自動車の速さやエンジン出力、品質、軽量化などを説いて回った。何故なら、彼の言葉の端々には、理想のクルマを手に入れたいとの情熱が込められていたからだ。
すでに1899年の初めから、「ムッシュ・メルセデス」の名でコート・ダジュールのレースに参戦した実力があった。彼はダイムラー車を駆る名ドライバーとして、大金融財閥のロスチャイルド男爵らと並ぶ存在。そこはさすが実業家で、この趣味を仕事に活かしたいと考えていた。
ダイムラー車の奇妙なメカニズム(彼にとってはスピード不足)に加えて、その名前にもうんざりしていた。つまり、1901年に登場したモデル35PSは「ダイムラー」という如何にもドイツ的なこの名前、フランスでは堅すぎると考えていたのだ。さすがは、セールスマンのパイオニアと言われるだけあって、ダイムラー社に大量発注(まとめて36台)の条件として、自分が販売するクルマをメルセデスの名前にすることを申し入れた。
エミール・イエリネックがこのメルセデスという女性の名前を付けたいと言ったのは、どこへ行っても自慢の種としていた愛娘の名前(当時10歳)だった。ダイムラー社の役員は、これ以降、自社の車をすべてメルセデスと呼ぶことにし、1902年に正式に商標名として登録。以後、ダイムラー社のメルセデスは、フランスだけでなく、ベルギー、ハンガリー、そしてアメリカにまでめざましい売れ行きを示した。ちなみにエミール・イエリネックは、ダイムラー社の役員にも選出され発展に貢献し、1909年に引退している。
それは「ムッシュ・メルセデス」の名前でレースの参加名簿に記入したことで証明すると同時に、「好きになってもらい、愛してもらうには、自動車は女性の名前であらねばならぬ」と常々語っていたと伝えられている。ちなみに彼の妻はスペイン人であり、娘のメルセデスはスペイン系の名前だ。
自動車史に偉大なる功績を残し、加えて時代の空気を反映させた広告やレースでも活躍する女性たち。そして、現在でも数多くの女性たちが自動車業界で活躍している。ベルタ・ベンツから始まった女性たちとメルセデス・ベンツの歴史は、今も脈々と続いているのだ。