グループCとグループA、GT、そしてチーム国光を設立
ヨコハマタイヤを開発しながら全日本F2/F3000や富士GCに参戦していた国さんは、1983年から始まったグループCによる全日本耐久選手権/全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)と、85年から始まったグループAによる全日本ツーリングカー選手権(JTC)にも活動の場を広げていきました。
JSPCではポルシェ956/962Cのトップマシンを得たこともあり、フル参戦を始めた1985年に全6戦中3戦で優勝を飾ってチャンピオンに輝くと、86年(全6戦中優勝2回、2位2回)、87年(全6戦中優勝2回、2位1回、3位2回)と3年連続でシリーズを制覇。未勝利に終わった88年はシリーズ4位に留まりましたが、翌89年には全5戦中で優勝は1回のみだったものの、全戦で6位以内と安定した成績で4度目のチャンピオンに輝いています。一方のJTCでは初年度から4シーズンは三菱スタリオンで参戦し、86年から87年にかけて計3勝を挙げていました。
さらに「チーム国光」を設立。1992年から2年間は、国さんを師と仰ぐ土屋圭市選手とコンビを組み、日産スカイラインGT-Rで参戦し、2シーズン目のオートポリスで優勝を飾っています。そしてJTCが93年一杯で終了し、それに代わってGT-Rが活躍できる場として全日本GT選手権(JGTC)が94年から始まると、2シーズンはポルシェ911RSRで参戦していましたが、96年シーズンからはホンダのNSXで参戦を続けています。
NSXでル・マン24時間クラス優勝を達成する
そのNSXがレースにデビューすることになったのは、国さんがホンダに対してNSXによるレース活動を提案したことがきっかけとなっています。社内でもNSXでレース活動を始めようという機運が盛り上がってきていましたが、当時の川本信彦社長から禁止令が出て、一度は暗礁に乗り上げていました。そこで国さんは、WGPに出場していた当時の監督だった河島喜好元社長(本田宗一郎さんから引継いだ2代目社長で当時は同社最高顧問)に掛け合い、河島元社長からプロジェクト遂行のお墨付きをもらったことでNSXのレース活動が実現したのです。
NSXのレースプロジェクトはル・マン24時間レース参戦や、JGTC参戦へと発展していきますが、その原点にあったのは国さんの「いいスポーツカーがあるのにレースに使わないのはもったいない」との想いでした。それはとりもなおさず、レース界、モータースポーツの世界を盛り上げたい、という想いでもありました。2輪から4輪、ともに最高峰のレースで活躍した国さんだけに、その想いは関係者も含め、じつに多くの人たちの、心の琴線に触れることになりました。
JGTCではシリーズをプロモートするGTアソシエイションの代表を務め、JGTCを盛り上げる活動に邁進していました。そしてそのGTアソシエイションで不祥事が起きた際にも、自らはその不祥事に関わりはないものの潔く身を退いています。
ある時、インタビューのメインテーマを聞き終えてレコーダーを停め、世間話に花が咲いたときのこと。「なんで国さんが辞めなきゃいけなかったんです!」と不条理への不満を口にしたところ「問題があったら誰かが責任をとることも必要。それが上に立つ人間の仕事だから」と恬淡な口調でお話しされていたことを思い出します。国さんにとって重要なのは、レースのために何をなすべきかということ。一連の出来事もその想いに尽きるものだったのでしょう。