モータースポーツで活躍! 次世代のGTや2代後のGT-R誕生のきっかけに
グロリアの登場により豪華さの追求から解き放たれたスカイラインは、よりスポーティなキャラクターを際立たせていきました。そのためにモータースポーツにも積極的に参加するようになりました。まだ鈴鹿サーキットが誕生する以前で、サーキットレースよりは悪路を走破するラリーに注目が集まりました。
国内初の本格的なラリーとされる、1959年に開催された第1回日本アルペンラリーでは古我信生/浜島輝元組がスカイラインで優勝を飾り、やはりスカイラインで出場した山本幸次郎/丸井博司組も総合3位に入り、栄光の歴史の最初のページを飾ることになりました。
一方、サーキットレースに関しては1963年に、前年に竣工されたばかりの鈴鹿サーキットを舞台に開催された第1回日本グランプリでの活躍が期待されていました。ただしレースを前に自動車工業会では「メーカーが直接手を出すのは控えよう」との申し合わせがあり、プリンス自動車工業は、この申し合わせを“馬鹿正直”に守って参加者となったユーザーのサポートにまわるだけでした。
ところがライバルメーカーは、自らがチューニングを施した車両を提供し、自らが契約したドライバーを参戦させるなど、本格的な活動を展開。ですから当然の帰結ですが、この第1回日本グランプリではグロリアと、スカイライン1900の2モデルが参戦したプリンス勢は惨敗に終わっていました。
もちろんそこからプリンスは会社としての方針を一転。翌年の第2回日本グランプリでは、第1回日本グランプリ後に登場した、それぞれフルモデルチェンジして2代目に進化したグロリアとスカイラインをチューニング。さらにスカイラインのノーズを伸ばしてグロリアのエンジンを押し込んだ、スカイラインGTを開発したのは良く知られたところです。
初代スカイラインを語るうえで忘れるわけにはいかないモデルが1962年に登場したスカイライン・スポーツです。イタリアン・デザインの巨匠、ジョバンニ・ミケロッティが手掛けた4座のクーペ&コンバーティブルは、初代スカイラインではなく初代グロリアのシャシー(基本的には同じでしたが、スカイライン用の1.5Lエンジンではなく1.9Lエンジンを搭載していたので、このように想定されています)にイタリアン・デザインのボディを架装したもので、1960年のトリノショーでデビューしていました。
グロリアと同様、1.9Lの直4エンジンは、圧縮比を8.0から8.5に引き上げて91psから94psへとパワーアップ。最高速も140km/hから150km/hに引き上げられるなど充分なパフォーマンスも発揮していました。
何よりもそのスタイリングは多くのファンに夢を与えるものとなりましたが、価格がグロリアの115万円に比べてクーペで185万円、コンバーチブルで195万円と極めて高価格となり、販売台数はクーペとカブリオレを合わせて約60台に留まってしまいました。