現役引退後も「チーム国光」を率いて活躍し続けた
国内モータースポーツのレジェンド、高橋国光さんの足跡を振り返るこの企画。2回目の前回は日産を離れてフリーのドライバーとして活躍し、全日本スポーツプロトタイプカー選手権では3年連続計4度のチャンピオンに輝いたこと。そして富士GCに単座のマシンを導入して圧倒的な速さを見せたこと。また同時に自らのチームを立ち上げたことなどを通じ、モータースポーツを盛り上げてきたことを中心に紹介してきました。3回目、そして最終回となる今回は、国さんが立ち上げた「チーム国光」の歴史に注目してみました。
当初はプレイングマネージャーとして自らドライブ
「チーム国光」が誕生したのは1992年のこと。当時国さんは、現役のトップドライバーとして全日本F3000選手権への参戦を継続していて、また国さんが3年連続を含む都合4度のチャンピオンに輝いた全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)は前年までで終焉を迎えていました。国さんにとってはそれに代わる参戦カテゴリーとして、全日本ツーリングカー選手権(JTC)へ4年ぶりに復帰参戦することになっていました。
JSPCで91年シーズンを戦ったのも、新たに92年シーズンからJTCに挑むことになったのも、チームとしては同じチーム・タイサンでした。JSPCではスタンレー・ディケンズやウィル・ホイらの外国人ドライバーとコンビを組んでの参戦で、JTCでは「ドリキン(ドリフト・キング)」の異名を持ち、国さんを師とも慕う土屋圭市選手とコンビを組むことに。
そんな状況下で誕生したチーム国光では、国さんはプレイングマネージャーの役まわりとなっていました。もっともメインはやはりドライバーで、若いスタッフがチーム監督(代行?)に任じられています。JSPCが91年限りで終焉を迎えていましたが、その2年前には富士GCシリーズも19年の歴史に幕を閉じていましたから、トップフォーミュラに相対するもうひとつのトップカテゴリー、本来的にはレーシングスポーツカーのトップカテゴリーが何になるのか、業界を挙げて模索が続いていたのです。
信頼できるレーシングガレージと組んで戦う
そんな時代に旗揚げしたチーム国光は、F3000では職人気質のベテランメカニックで、国さんとは長い付き合いのある重山和徳さんのメンテナンスガレージ、PALスポーツにマシンメンテナンスを一任。国さんはドライバーに専念するなど、各々の役割分担が決まっていました。JTCもクルマのメンテナンスとチームオーガナイズはタイサンに任せて、国さんと土屋選手は走りに専念する。チーム国光を立ち上げたものの、2年間はこうした体制でレースを戦うことになりました。
この体制が変わったのは94年から。93年限りで終焉を迎えたJTCと入れ替わるように、94年から本格的にスタートした全日本GT選手権(JGTC)に参戦を開始するにあたり、初めてチーム国光の名でエントリーすることになりました。ただしマシンのメンテナンスは信頼できるレーシングガレージに一任するスタイルは変わりません。例えばポルシェで走った2年間はノバ・エンジニアリング、ル・マンで走ったNSXを使用した96年シーズンは、耐久レースでは定評のあるシフト。そして国内向けのNSXにマシンチェンジした97年からは、空力に関する開発では定評のあるムーンクラフトに、といった具合です。