『R’s Meeting』で久々に対面した赤/黒のR32
令和4(2022)年10月30日(日)に開催することが決定した「GT-R Magazine」主催のイベント『R’s Meeting 2022』。コロナ禍前に開催した2019年の同イベントは過去最高の盛り上がり(来場者数=7162人/出展ブース=92小間)を記録。さらに、2019年は「GT-R生誕50周年」をはじめとする複数の記念イヤーが重なる特別な年となった。スペシャルゲストとして来場した土屋圭市氏は、かつてグループAレースでステアリングを握ったR32スカイライン「STP TAISAN GT-R」と久々に対面。全国から歴代GT-Rが駆け付けた富士スピードウェイで、再びその勇姿を見せてくれたのだ。
(初出:GT-R Magazine 149号)
まさか自分が“神様”とコンビを組めるなんて
令和元(2019)年9月14日。GT-R Magazine主催のイベント「R’s Meeting 2019」の開催当日、富士スピードウェイのピット内には、赤と黒の“アドバンカラー”をまとったR32スカイラインGT-Rがただずんでいた。「STP TAISAN GT-R」。’91年~’93年の3シーズン、『チーム・タイサン』はR32GT-RでグループAレース(全日本ツーリングカー選手権)に参戦。初年度は高橋健二/土屋圭市のコンビがドライバーを務め、翌’92年からは土屋が少年時代から大きな憧れを抱いていた高橋国光とパートナーを組むことに。
「最初にその話を聞いたとき、また千葉さん(チームオーナーの千葉泰常監督)がデカイことを言っちゃって……と思ってまったく信用できなかった。あんな神様みたいな人が俺のような小僧と組んでくれるわけがない、とね」と当時を振り返る土屋。しかし、のちにその話が真実だと知り、高橋国光と対面した土屋は、「直立不動になり、こちらから声を掛けることすらできなかった」と述懐する。
’19年のR’s Meetingは、「GT-R生誕50周年」に加え、「R32GT-R生誕30周年」と「R34GT-R生誕20周年」が重なるメモリアルなイベントである。その目玉として、現車両オーナーのご厚意により本物のグループAマシンであるタイサン号を富士に持ち込み、当時ドライバーを務めた土屋によるデモ走行が実現した。
GT-Rに乗れるのはプロ中のプロだけだった
このマシンのシャシーナンバーは「001」。’91年に市販されたR32グループA仕様の第1号車であり、チーム・タイサンが購入した個体。’90年、R32グループA初年度はチームインパル、ハセミモータースポーツ、オブジェクトT(途中参戦)の3台だったが、タイサンは4台目のGT-Rとして’91年よりグループAのディビジョン1にエントリー。当時の車名は「KLEPPER TAISAN GT-R」だったが、グループAレース終焉後、チームオーナーである千葉代表の意向で、’92~’93年の「STPカラー」に変更し保管されていたという。長年レーシングドライバーを務めた土屋にとって、グループAを闘ったこのR32はもっとも思い出深いマシンだという。
「’91年にR32に乗る前にもいろいろなカテゴリーのレースに出ていたけど、グループAでGT-Rに乗ってから、『プロっていうのはこういう人たちのことを言うんだ』と悟った。それまでにもAE86やシビック、フォード・シエラでグループAに参戦していたけど、マシンをぶつけて相手を飛ばすなんて当たり前だった。だけど、R32では当たることはあっても、相手を弾き飛ばすというのは1回もなかった。星野一義さんや長谷見昌弘さん、鈴木利男さんと一緒に走ってみて、『本当にこの人たちはスゲーな』と。自分が今までやってきたレースはいったい何だったんだろうってね」
“国さん”は優しくて全部自分に任せてくれた
土屋にとってGT-Rでのレース2年目となる’92年。高橋国光をパートナーに迎え、レーシングドライバーとして大きなステップを踏むことになる。
「国さんはとにかく優しくて、何でも俺にやらせてくれた。セッティングやタイヤのテストまで『圭ちゃんの好きなようにやっていいよ』と。普通はエースドライバーがやるような仕事を全部任せてくれた。ほかのチームではあり得ないことだった。ナンバー2のドライバーが新品のタイヤを履くなんて絶対になかったし予選も俺に行かせてくれたから」
ドライバーとして、そして人としても、グループAにGT-Rで参戦したことが、のちの土屋の人生に大きな影響を与えたという。グループAが幕を下ろしてから26年。富士スピードウェイのピットでかつての相棒であるR32GT-Rを黙って見つめる土屋の脳裏には、忘れがたき思い出の数々がフラッシュバックしていたことだろう。長期にわたり車庫で眠っていたタイサン号は、イベント当日のためにレーシングガレージで整備され事前の試走も実施していただいた。マグネシウム製のアップライトなど足まわりは当時のままであり、経年劣化による強度不足の懸念から全開走行することは叶わなかった。だが、マシンに乗り込む土屋の目つきは、まるで“現役当時”のように鋭かった。