プリンス自動車の代表としてレースでの勝利は必須
1957年(昭和32年)4月24日、戦時中に軍用機を造っていた立川飛行機と中島飛行機を母体に誕生した富士精密工業が、東京・日比谷の宝塚劇場にて日本初のショー形式で発表したのが「スカイライン」である。先進的な技術を数多く採用したセダンの意欲作だった。
富士精密工業とは、じつは’54年にプリンス自動車が社名変更をした会社だが、’61年2月にはふたたびプリンス自動車工業へと社名を戻し、新たなクルマ造りに情熱を傾けるようになる。
グロリアの高級化が進みスカイラインはスポーティ路線へ舵を切るが……
9月にはグロリアをモデルチェンジし、’63年6月に日本初のSOHCエンジンG7型2L直列6気筒を積むグロリア・スーパー6を発売。グロリアがプレミアムセダンへと歩み始め、2代目スカイラインはダウンサイジングを図り、小型ファミリーカー、そしてスポーツセダンへの大きな一歩でもあった。これが今につながるGT伝説、スカイライン神話誕生の原点である。
第2世代のS50系スカイラインは’63年9月にベールを脱ぎ、11月から発売を開始。軽くて剛性の高いモノコック構造のセダンボディを採用し、パワーユニットは1.5L G1型直列4気筒OHVのみ。発売されるやS50型スカイライン1500は、好調に販売を伸ばし、首脳陣と開発陣は、ホッと胸をなで下ろした。
その理由は、S50型が発表される4カ月前にさかのぼる。
鈴鹿サーキットを舞台に初の日本グランプリが開催されたが、プリンス自動車は大会方針を律儀に守ったため、チューニングしたマシンを持ち込んだライバルメーカーに大敗を喫した。この結果、技術を売りにする同車の新車販売は大きく落ち込む。それゆえS50型スカイラインの好調な滑り出しを見て、社員は勇気づけられたのである。
しかし、次のグランプリで勝たないと汚名をそそぐことはできない。捲土重来を期し、社内では何度も会議を開いている。その席上で、ヨーロッパのツーリングカーレースで大暴れしているコルチナ・ロータスのようなモンスターマシンを製作するという驚くべき案が出された。
そこでスカイライン1500のホイールベースとボンネットを延長し、グロリアのG7型2L直列6気筒を搭載。それがGTカテゴリーのホモロゲーションを取得するために100台だけ限定生産された、スカイラインGT(型式はS54A‒I型)だ。
スポーツキットの形でツインチョーク・ウエーバー40DCOEキャブやOD付き4速MT、ノンスリップデフなどを装備したスカイラインGTは、練習走行で群を抜く速さを見せている。
だが、’64年5月の第2回日本グランプリGT‒IIに驚くべき刺客が送りこまれた。ポルシェの最新鋭マシン、904GTSだ。ところがスカイラインGTは濡れた路面を味方につけてポールポジションを奪い、決勝でもポルシェに食らいつく。1周ではあったもののトップを走行し、優勝には手が届かなかったが、2位から6位までを独占。このアグレッシブな走りが共感を生み、GT伝説、GT神話が誕生する。
レース後、スカイラインGTの再販を期待する声が高まり、’65年2月にカタログモデルに昇格され、S54B‒IIと呼ばれるスカイライン2000GTが登場。9月には青バッジのシングルキャブ仕様、2000GT‒Aが誕生し、これを機にウエーバーキャブ3連装の高性能版は2000GT‒Bに改名している。当然、装着されたのは栄光の赤バッジだ。
ところが’65年5月31日、経営不振に陥っていたプリンス自動車は通産省(現・経済産業省)が提案した業界再編成の勧めを受け入れ、日産自動車との合併覚書に調印。66年8月1日、日産に吸収される形で合併した。これを受け、10月にはスカイラインの車名を「日産プリンス・スカイライン」に変更した。
’67年7月、3代目は「C10」の型式で「日産スカイライン」として新たなスタートを切っている。キャッチフレーズは「愛のスカイライン」。最初に4気筒エンジン搭載車が登場し、9月にロングノーズにL20型2L直列6気筒SOHCエンジンを積んだ2000GTを追加設定した。
これは2代目のGT‒Aの後継セダン。発表はされなかったが、スパルタンなGT‒Bの後継モデルも開発されていた。それが東京モーターショーでベールを脱いだ超ド級のスポーツセダン、「GT‒R」である。