ル・マンのアクシデントの影響もありレースに出ることが叶わなかった悲運のレーシングクーペ
300SLRのデビュー戦は1955年スポーツカー世界選手権第3戦のミッレミリアでした。オープンモデル4台がワークスチームとしてエントリーしていましたが、うち2台はトラブルでリタイアとなりました。しかしスターリング・モス/デニス・ジェンキンソン組が優勝し、ファンジオが2位で続く、見事な1-2フィニッシュでデビューレースウィンを飾っています。
続く第4戦のル・マン24時間ではファンジオ/モス組がマイク・ホーソン/アイバー・ビューブ組のジャガーとトップを争い、カール・クリング/アンドレ・シモン組が3位で続く展開となりました。ですがピエール・ルベー/ジョン・フィッチ組がアクシデントに巻き込まれてしまいました。
これはトップ争いをしていた3台と周回遅れのオースチン・ヒーレーとが関わったアクシデントでした。オースチン・ヒーレーがホーソンに追い越されたあと、ピットロードに向かうために急減速したホーソンをよけるために左に車線を移したところ、後方から迫ってきたルベーと絡んでしまい、右前輪がヒーレーの左後輪に乗り上げる格好でルベーのマシンは宙を舞い、スタンド前の防護土塁に落下。
なおバウンドしながら移動を続ける間にエンジンやミッション、サスペンションなどがスタンドに巻き散らかされ、ルベーと観客83名が死亡するという大きな、そしてモータースポーツ史上で類を見ない悲惨なアクシデントになりました。
5カ月間にも及ぶ査問調査の結果、大会主催者やいずれのドライバー/チームに責任がないとの結論が出されています。しかしそのダイムラー・ベンツ社はル・マン24時間レースからの即時撤退を決めるとともに、その年限りでメーカーとしてのモータースポーツ活動を休止することを決定してしまいました。
じつはこの時点までに、ダイムラー・ベンツ社はこのシーズンの最終戦となるはずだったカレラ・パナメリカーナ・メヒコに向けて300SLRのクーペモデルを製作することを決定していました。会社としてのモータースポーツ活動が休止されたことに加え、ル・マン24時間でのアクシデントを原因に、カレラ・パナメリカーナ・メヒコという競技自体も取りやめとなってしまったのです。
300SLRのクーペモデルは、結果的に一度もレースに参加することなくダイムラー・ベンツ社の博物館に収蔵され、クルマ関連イベントで展示されたり、雑誌の企画でインプレッションが行われたり、はたまたウーレンハウト自身が日常的にドライブしていたとか、いくつかの武勇伝はありましたが基本、静かな余生を過ごすことになりました。そして1986年には完璧な状態へとレストアされていたことでも知られています。
こうした個体のヒストリーとダイムラー・ベンツ社が70年近くも厳格に収蔵管理していたこと。そして何よりも世界でたった2台しか製作されていない希少性。そんな諸々の状況から、オークションが行われる以前から高値で落札されることは充分に予想されていました
個人的にはクルマを投機の対象とすることが好きではないのですが、出展者がダイムラー・ベンツ社自身であること。そして同社が、落札によって得られた収益を環境科学や脱炭素の分野で研究・教育を行うための基金設立に充てる、と発表したことで、投機対象云々についての疑念や嫌悪感は薄れていきました。そして何よりも190億円近いという破格の落札価格にはもう驚くばかりです。そしてクルマの価値が分かる人に落札されてよかったのだと、今はしみじみ思うようになりました。