「R’s Meeting」にGT-R界のレジェンドが来場!
令和元(2019)年は日産自動車のスカイラインGT-Rにとって特別な年となった。初代のPGC10型ハコスカGT-Rが誕生してから「50周年」という大きな節目であったことに加え、第2世代と呼ばれる「R32型の30周年」、「R34型の20周年」が重なったのだ。同年9月14日に富士スピードウェイで開催した「GT-R Magazine」の「R’s Meeting」には、歴代スカイラインおよびGT-Rの開発を指揮したキーマン4名が特別ゲストとして来場。「GT-Rの生みの親」とも言える御大4名に、生誕50周年を迎えての心境を聞いた。
(初出:GT-R Magazine 149号)
R32商品主管「伊藤修令氏」語る
昭和34(1959)年に『プリンス自動車』の前身である「富士精密工業」に入社し、「日産自動車」との合併後、初代GT-RとなるPGC10型スカイライン(ハコスカ)の開発にも携わった伊藤修令氏。櫻井眞一郎氏の意志を受け継ぎ、7thスカイライン(R31型)末期からスカイラインの商品主管に着任し、後にR32型スカイラインでは16年ぶりにGT-Rを復活させた立役者である。その誕生前夜から50年間、GT-Rを見守り続けてきた伊藤氏に今の想いを聞いた。
S54がなければGT-Rは生まれなかった
50周年と聞くと、スカイラインGT-Rは本当に長い歴史を刻んできたなぁと、あらためて思います。半世紀にもわたり皆さんの期待に応えてきたGT-Rのすごさというものをひしひしと感じます。わたし自身もかつて「プリンス自動車」に入社してから2019年でちょうど60年を迎えます。以前にも「GT-R Magazine」さんのインタビューでお話ししましたが、わたしにとってGT-Rの原点はプリンスのスカイラインGT(S54型)です。自分自身のスカイライン人生の中でも大きな役割を果たし、強く思い出に残っている一台で、決して忘れられないクルマです。
プリンスに入ったのは、初代のALS-1型スカイラインへの憧れがあったからです。当時としてはアメリカンナイズされた斬新なスタイリングで、「日本のクルマもここまでできるのか」と大きな感動を覚えました。だからこそ、自分も人に感動を与えるクルマを造りたいという思いでプリンスを選んだのです。S54もそうですが、わたしの中ではPGC10とR32も非常に強く印象に残っているクルマです。S54がなければその次のハコスカはなかったでしょうし、16年ぶりにGT-Rを復活させたR32がなければ、今のR35も存在しなかったかもしれません。
この先のGT-Rにも「志」を受け継いでほしい
この先もGT-Rはぜひ続けてほしいと願っています。そういう意味では、今のR35GT-Rを担当している田村宏志(現・日産自動車 GT-Rブランドアンバサダー)の後継者をどうするのか。そこがとても気になっています。誰が引き継ぐのかはわかりませんが、一番大切なのは「志」だと思います。どういうクルマにするのか、GT-Rとは何を目指しているクルマなのか。そういう志をしっかりと理解して、それに見合うクルマをきちんと造ることができれば、恐らく歴史的に裏付けられたGT-Rというのものがこの先も存在できるのではないでしょうか。
まったく違うようなクルマを造って「これがGT-Rだ」とは言ってほしくありません。スカイラインやGT-Rというクルマは、志を引き継いでいくことが非常に大切だと思っています。継続は力なりという言葉がありますが、ただ同じことをずっと続けるということではなく、魂を持って続けていくことが重要なのです。そういうものを引き継いでくれる人物が、今の日産にもきっといると思います。かつて「901活動」(※’90年に世界一のハンドリング性能を達成することを目標として当時の日産開発部隊が行っていた活動)、を行っていたとき、当時はまだ若手だったチームの人間も現役社員として日産にいますし、そういう人が継いでくれたらいいな、という気がします。
R’s Meetingの前夜、田村が運転するR35の最新型(2020年モデル)に乗せてもらいましたが、GT-Rとしての魂は引き継がれていると感じました。田村は非常にレベルの高いクルマに仕上げたな、と。そこには志も感じました。原点のS54からR35まで、それが続いていることをうれしく思います。だからこそ、この先のGT-Rにも同じように進化を続けてもらいたいですね。
R33商品主管「田口 浩氏」語る
R32型スカイラインでは商品主担として伊藤主管をサポート、R33型では商品主管に着任し開発を指揮した田口 浩氏。初代スカイラインGT-Rが誕生した昭和44(1969)年に「日産自動車」に入社。GT-R同様、田口氏自身にとっても2019年は日産入社からちょうど50年を数える年となった。R31の途中からスカイラインチームに加わり、GT-R復活プロジェクトを水面下で支えた田口氏がスカイラインとGT-Rに寄せる想いとは。
ポルシェ904との激闘がすべての始まり
今年もR’s Meetingに呼んでいただき、これほどたくさんのファンの皆さんが集まってくれたことを大変うれしく思います。若い人や家族連れの姿も多く見受けられましたし、スカイラインファンの方々の熱意はすごいなと実感しました。50周年ということであらためて感じることは、GT-Rは初代C10以前のプリンス時代から話が繋がっているということです。第1回日本グランプリでプリンスが惨敗し、それがきっかけで直列6気筒エンジンを積んだS54のスカイラインGTが生まれました。当時設計に携わった伊藤さんからもお話しを聞いたことがありますが、徹夜続きで造り上げたS54が翌年の第2回グランプリでポルシェ904とデッドヒートを繰り広げたことがすべての始まりだったわけです。
その後、初代ハコスカGT-Rが’69年にデビューして、わたしも同年に日産に入り、その後は車体とレイアウト設計を担当しました。スカイラインは櫻井眞一郎さんが設計者で、そのイメージが長年ずっと続いていました。R31の途中まで櫻井さんが手掛けられたわけですが、伊藤さんが後を継いで主管になり、R31で非常に辛い思いをしたぶん伊藤さんはR32の開発に強い気持ちで臨まれ、わたしも商品主担としてR32を担当することになりました。
セダンでありながら速く走れるのが原点
当時主担だったわたしは、「とにかく伊藤さんを男にしなければ」という思いで懸命に開発に携わったことを思い出します。恐らく、R32の開発チームは皆そう思っていたのではないでしょうか。R31ではかなり苦労をしましたし、新しい直列6気筒のRBエンジンが期待されたほど走らなかったこともあり、ファンからは厳しい意見も頂戴しました。伊藤さんと二人で全国の販売店を回るなど、非常に大変な思いをしたクルマでした。だからこそ、次のR32では絶対にリカバリーしなければいけないし、必ず成功させるんだという強い気持ちで、走りの性能をしっかりと上げようと頑張りました。
2019年でGT-Rが50周年、R32が30周年と聞くと、短かったような気もしますし、いろいろなことがあって長かったなと感じる部分もあります。そして今日、富士スピードウェイにこれほど多くのファンが集まった光景を目にして、スカイラインGT-Rというクルマはファンの皆さんにずっと支えられてきたんだなと、しみじみ思い入った次第です。
日産を退社してからも、スカイラインやGT-Rのことは気に掛けながら見てきました。わたしが考えるスカイライン像はファミリーセダンであり、それでいて速く走れる性能を有しているクルマです。わたしが手掛けたR32/R33スカイラインは、その時代時代に合わせながら、皆さんが理想として望まれていることを表現できたと思っています。この先のスカイラインやGT-Rも、いずれAIのお世話になる時代が来るかもしれません。わたしは形は変わっても、スカイラインとGT-Rはこの先も続いてほしいですし、常にファンの皆さんを驚かせるような存在であってほしい。そう願っています。
R33/R34商品主管「渡邉衡三氏」語る
昭和42(1967)年、「日産自動車」入社直後からC10スカイラインのサスペンション設計を担当。その後、R32型スカイラインの実験主担/実験主管を経て、R33型とR34型の商品主管を歴任した渡邉衡三氏。初代のハコスカGT-Rに加え、第2世代GT-Rの開発すべてに携わった貴重な存在である。「GT-R Magazine」でも長年にわたり連載企画に寄稿、R’s Meetingもほぼ皆勤賞で参加いただいている渡邉氏が50周年を迎えての率直な気持ちを語る。
日本GPで勝っていたらGT-Rは生まれなかった
正直に言いますと「もう50年も経ったのか」という思いです。わたしがまだペーペーの新人のころ、PGC10(初代ハコスカGT-R)のレース車両の足まわりを担当させてもらい、さらに第2世代最後のR34スカイラインで日産を卒業してからも20年が経っています。自分が年を取ったということなのかもしれませんが、この50年間はあっという間に感じます。入社当時、伊藤修令さんから「足まわりの設計はこうやってやるんだ」ということを叩き込まれたことが、今も強く記憶に残っています。GT-Rの50年という歴史があるのは、ある意味においてポルシェという存在のお陰かな、とも思っています。もし仮に、第2回日本グランプリにポルシェ904が参戦せず、相手がコルチナ・ロータスだったとしたら……。レバタラがあってはいけないかもしれませんが、そこでプリンスのスカイラインGTが勝っていたならば、その後のスカイラインやGT-Rの存在はどうなっていたのだろうかと。
世界の本物のスポーツカーのレベルはこういうものなんだということを、ポルシェにまざまざと見せつけられたのです。グランプリが終わった後でプリンスの田中次郎さんと榊原雄二さんがブラバムのシャシーを買い付けに行き、その後R380を開発しました。そのエンジンをディチューンしてC10スカイラインに積んだのが初代GT-Rです。
究極のドライビングプレジャーを追求し続けてほしい
そういう歴史も踏まえ、今から30年前に発売したR32スカイラインGT-Rは、「出てこいポルシェ!」という意気込みで開発しました。そういうバックボーンをご存知ない方もいらっしゃるのではないでしょうか。今では海外で600psの4WDで4輪ステアだということを威張ってらっしゃるクルマもあるようですが、わたしに言わせていただければ、「30年前に自分たちはすでにやっていましたけど、何を今さら?」という風にも思ってしまいます。
GT-Rファンの皆さんも気になるであろう今後のGT-R像ですが、「究極のドライビングプレジャーの追求」をぜひとも続けてほしい。それがわたしの願いです。当然、ハードウェアに関しては時代の要請もありますし、何を使用しても構わないと思います。ただ、それを使って本当に楽しいのか? 乗っている人に楽しさを感じさせることができるか? というところを真剣に考えてほしいですね。
R’s Meetingではあれだけたくさんのファンが熱心にサポートしてくださり、ショップの方々も一生懸命取り組んでくださっている。そして、GT-R Magazineさんをはじめ、マスコミの皆さんもGT-Rを可愛がってくださっていることは大変ありがたく思います。
ファンの方から「いいクルマを造ってくれてありがとう」と言われて困惑することがあるのですが、わたしとしては、お客さまに対して「こちらこそ大事にしていただいてありがとうございます」という感謝の気持ちしかありません。
R35統括責任者「田村宏志氏」語る
昭和59(1984)年、「日産自動車」に入社。R34型では商品主担として最後の「ニュル」や’01年の東京モーターショーでサプライズ公開された「GT-Rコンセプト」の企画などを担当。’13年4月よりR35の統括責任者としてGT-Rの開発現場に復帰。2014年モデル以降、「GT」(基準車)/「R」(NISMO)という二つのゾーニングでR35に新基軸をもたらした。そんな現役ミスターGT-Rとも言える田村氏から、50周年を迎えてのメッセージを頂戴した。
ハコスカの衝撃がその後の人生を決定づけた
かつてわたしが担当したR34では、最終の限定モデルである「ニュル」のカタログに「Thanks to You」というメッセージを記しました。GT-Rが生誕50周年を迎えた今も、同じようにお客さまへの感謝の気持ちでいっぱいです。GT-Rの担当者として、ある種の節目みたいなところにいさせてもらえたというありがたみもありますし、自分が仕事として関わってきたモノが世の中に広がりを見せるということは、今も昔も感慨深いものがあります。わたしが10歳の時に富士スピードウェイで見たハコスカGT-Rのインパクト。レーシングカーのものすごい衝撃を受けてから50年近くが経ちました。あの日「自分は将来、日産に入ってGT-Rを造るんだ」と決意したのです。それが今のエネルギーになっていますし、お客さまが喜ぶ顔が見たいという気持ちの原動力にもなっています。
わたしはお客さまに寄り添うという感覚や、ニーズを把握するということを永遠のテーマとしてこれまで商品企画に携わってきました。こちらはあくまでクリエイターであり、主はあくまでお客さまなのです。アウトプットしたことに対してのお客さまのリアクションで決まっていくわけですから、そういうキャッチボールが楽しいというのもあります。
究極的に楽しいことを永遠に追い求めるのが宿命
今はSNSやインターネットで利用されるコネクションが世界中に広がっているダイナミックな時代です。クルマ好きの情熱とか温度というのは、日本だけではなく古今東西、海外にも共通する部分があると思っています。’01年の東京モーターショーで次期型GT-Rのコンセプトモデルを左ハンドルとしたのは、次はグローバルカーにするというメッセージだったわけですが、あれから18年でこれほどGT-Rが世界に広まり、その価値を多くの方にわかっていただくことができました。とはいえ、世界的なファンに対してはまだ足りていないところもあるので、わたしにもっと貢献しなさいと言われるのであればそういう部分を少しずつでも足していきたいですし、GT-Rの深化はまだまだ止まりません。
「GT-R Magazine」というメディアが繋ぐ世界感はすごく尊敬していますし、R’s MeetingはGT-Rファンの皆さまと触れ合い、諸先輩たちと再会できる貴重な場所でもあります。そのようなチャンスを与えられて思うのは、人それぞれに個性がある中で、多少のニュアンスの違いはあったとしても根本に流れている血はあまり変わらないのではないか、ということです。
同じようなジャンルの人たちが日産のDNAの中で紡がれてきたからこそ、GT-Rは50周年を迎えることができたのだと思います。漠とした言い方ではありますが、「究極的に楽しいとは何ぞや」ということを永遠に追い求めるのがGT-R、もしくは日産の世界感なのかもしれません。わたしではなくても当然続けていかなくてはならないでしょうし、それが日産の宿命だと思っています。
※この記事は2019年10月1日発売の「GT-R Magazine 149号」に掲載した記事を元にを再編集しています)