自動車メーカーとしては1954~64年のわずか10年だけ活動
第二次世界大戦前のフランスにはドライエ(Delahaye)やドラージュ(Delage)、あるいはイスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)やブガッティ(Bugatti)といった魅力的な高級車が存在していましたが、戦争によって生産機能が失われ、マーケットも疲弊してしまいました。そうした世情を背景に、夢よもう一度、と立ち上がったメーカーがファセルでした。今回は、戦後のフランスで夢を追いかけたメーカー、ファセルを振り返ります。
ボディメーカーから自動車メーカーへと転身
第二次世界大戦が勃発した1939年に、フランスの軍用機メーカーだったブロンザビアによって、金属加工メーカーとして設立されたファセル(FACEL=Forges et Ateliers de Constructions d’Eure-et-Loireの頭文字を繋げた造語。仏語でユール・エ・ロワール金属加工所の意)。戦後になってジャン・ダニノが指導者に起用されると、ファセルはメタロン(Métallon)と合併し、「ファセル・メタロン」としてクルマのボディ生産を手掛けるようになりました。
クライアントはパナールやシムカ、フォード・フランスなどに加えてドライエのような高級車メーカーからもオーダーがあり、さまざまなクルマ(のボディ)を生産するようになりました。なかでもパナールは戦前の高級車メーカーから戦後は一般的な小型乗用車にシフトしていて、46年に発表された「ディナ」はAlpaxの登録商標で知られる、アルミニウムとシリコンの合金を鋳造したサイドレールとスカットルを主構造としたセミモノコック構造のメインフレームを持つ、凝った造りで知られる1台でした。
ただし、そんな新しい軽合金の鋳造技術など、パナールには備わっていなくて、ディナのボディ生産はファセル・メタロンに「丸投げ」だったとも伝えられています。いずれにしてもファセルは、持ち前の金属加工技術を活かしてクルマ(のボディ)づくりに励むことになりました。
もうひとつ、この時期に注目すべきはドライエのボディづくりも手掛けていたことです。このような経緯からも、ファセルがほかのメーカーからの依頼ではなく、自らデザインしたクルマづくりを手掛けるようになったことにも充分に納得できます。
もうひとつの要因は、じつはこちらがもっとも大きな要因となってくるのですが、各メーカーが独自にボディを製作するようになったこと。何よりもファセルにとっては大口だったクライアント、パナールからの仕事がなくなったことが大きかったようです。ちなみに戦後の53年にファセルはメタロンとの提携を解消し、単独でクルマづくりへの道を歩み始めていました。
一方で、戦勝国であったにもかかわらず戦禍の酷かったフランスでは、復興のために小型の大衆車を奨励するとともに「高級車」に多額の税を課し、事実上の生産制限を敷いていました。これに反発するかのように、社交界の寵児でもあったジャン・ダニノはフランス製高級車の復権を目指すことに。パナールのディナを生産していたしていたラインを使って、独自にデザインしたクルマの生産を思い立ったのです。
ただし、ボディづくりのノウハウは充分にありましたが、独自にエンジンを設計する能力も開発していく余裕もファセルにはありませんでしたから、ダニノはほかの自動車メーカーからエンジンを購入することを決断します。発注先は当時、ファセルのような小メーカーには人気の高かったクライスラーで、V8エンジンを指定。当初は4.5Lの排気量から180psを捻り出すユニットが選ばれていましたが、5.4L/200psを経て5.9L/300psへと発展していきました。これに贅を尽くしたオリジナルボディを架装して、人気を呼ぼうという作戦でした。
この作戦はある意味では的を射ていて、社交界では人気を呼びましたがやはり販売台数は限られていて、営業的には大きな成功とは言えませんでした。そこでダニノが放った第二の矢が、廉価版のファセル・ヴェガともいうべきファセリアでした。
これはファセルとしては初のオリジナルとなる、1.6L直4ツインカムを新設計して搭載した2ドアクーペでしたが、廉価版というにはあまりにもコストが掛かったうえに、新機軸を注ぎ込んで開発したエンジンにトラブルが続出。その対処のためにさらにコストが掛かるという悪循環となり、最終的には自動車メーカーとしてのファセルの歴史を閉じざるを得ない結果となっていきました。ダニノの夢も潰えたのです。