84時間耐久レースでは見事総合4位でチェッカー
今年のスーパー耐久シリーズでは、トヨタの豊田章男社長が主張する「レースでクルマを鍛える」論に賛同する格好で、SUBARUやマツダ、日産がレース活動を展開しています。なかでもマツダは早くから海外の耐久レースに参戦して、当時としては新技術のロータリー・エンジンを開発してきました。今回は、そんな海外レースで開発が進められたマツダのコスモスポーツとロータリーエンジン(RE)の歴史を振り返ってみました。
プッシュロッドからOHC、そしてロータリーエンジン
戦前にオートバイの生産を経て3輪トラックで自動車メーカーとして名乗りを挙げたマツダ(当時は東洋工業)。戦後も3輪トラックで再出発し1960年(昭和35年)から3年間は自動車の生産台数では国内トップとなりましたが、その大半は廉価な3輪トラックで経営基盤は脆弱なままでした。
当時の通商産業省(現・経済産業省)では、自動車メーカーの国際競争力をつけるために自動車メーカーを3つのグループに統合するという構想を抱いていました。この構想のなかでマツダは、軽自動車メーカーとされたのです。
軽自動車や小型の大衆車から大型の高級乗用車までを手掛ける総合自動車メーカーを目指していたマツダとしては、何としても独立を保ちたいと考えていて、そのために技術的にも他メーカーとの差別化を図ろうとしました。
考えてみればサイドバルブが一般的だった当時、早い段階からプッシュロッド(OHV)の空冷2気筒を開発し、さらにOHCにまで発展させてきたマツダだけに、内燃機関(エンジン)における差別化を追求して優位性を保とうとする考えが徹底されていたように思われます。
いずれにしてもそんなマツダは、1957年にフェリックス・ヴァンケル博士が西ドイツ(当時)の自動車メーカー、NSU社と共同で開発したヴァンケル・エンジン(日本ではロータリー・エンジンと呼ばれていますが、海外では一般的に、開発者の名に因んでこう呼ばれています)を手掛けるべく、両社から基本特許の許諾を受けることになりました。1963年(昭和38年)の4月には、のちにマツダの社長となる山本健一さんが率いるロータリーエンジン研究部が発足、いよいよ開発がスタート。
新たなモノを創造するためには、必ずと言っていいほど困難が付きまといます。同じ内燃機関とは言っても、それまでのエンジンとはまったく違った機構を持ったREだけに、その困難さも想像以上のものがありました。
最大の難題となったのは“悪魔の爪痕”と呼ばれたチャターマークでした。おむすび型のローターの3つの頂点が、つねにまゆ型のロータリーハウジングの内面に密着。ハウジング内面には硬質のクロームメッキが施されていましたが、こすりながら猛スピードで回転していくため、数時間の運転でハウジングの内面は表面がガタガタに。クロームメッキで最初は鏡のようだったものが、まるで洗濯板のようになってしまう……。
おむすび型のローターの3つの頂点に取り付けられたアペックスシールの素材から表面加工や形状まで、ありとあらゆる工夫がトライされました。その過程でアペックスシールの先端に横穴を開け、それと交差する縦穴を開けたクロス・ホロー(cross hollow)タイプとして周波数特性を変えたものをトライし、対策が大きく進展したこともありました。
結果的にはアルミニウムを含浸させたカーボン製のアペックスシールを採用し、量産エンジンの第1号機が完成。1966年(昭和41年)の初頭には数十台のプロトタイプ・コスモが全国のディーラーに配られ、コスモスポーツが、初のRE搭載車として1967年(昭和42年)5月に発売されることが発表されています。