レースデビューの84時間レースで見事4位入賞を果たす
1967年5月に発売されたコスモスポーツは、1年後の1968年8月、レースに実戦デビューを果たします。舞台は西ドイツ(当時)のニュルブルクリンク。1周24kmの山岳コースは今も難コースとして知られ、毎年のようにツーリングカーやGTカーの24時間レースが開催されていますが、コスモスポーツの実戦デビューとなったのはマラソン・デ・ラ・ルート(Marathon de la Route)と呼ばれた84時間の耐久レース。
3日半にわたって難コースを走り続ける過酷なレースでしたが、これが初レースとなるコスモスポーツは日本人クルー(古我信生/片山義美/片倉正美)とベルギー人クルー(“エルデ”/Y.デプレ/“ジピア”)がドライブする2台が出場しています。
スタートから上位につけた2台は80時間を過ぎた時点でも、2台のポルシェ911やランチア・フルヴィアに次ぐ4~5位で安定した走行を見せていました。しかし、レースも残り1時間半となったところで、日本人クルーの1台はリヤアクスルのトラブルからリタイアを喫してしまいます。
それでも残ったベルギー人クルーの1台は、最後の最後まで安定したペースで84時間を走り抜き、見事総合4位でチェッカーを受けています。コスモスポーツのメジャーレース参戦はこの1レースのみで、翌年からはファミリア・ロータリークーペが主戦マシンとなってスパ・フランコルシャン24時間レース(総合5~6位)やマラソン・デ・ラ・ルート84時間(総合5位)で活躍したほか、シンガポールGP(ツーリングカーレース)では総合優勝を果たしました。
また同年の11月に鈴鹿サーキットで開催された全日本鈴鹿自動車レースでは、グランドカップレースで総合1位となり、国内でビューに花を添える結果となっていました。その後はカペラやサバンナRX-3、同RX-7と発展していく一方で、レーシングスポーツのパワーユニットとして富士グランチャンピオン(GC)レースや耐久レースで活躍。その集大成となった1991年のル・マン24時間レースで4ローターのREを搭載したマツダ787Bが、国産車として初の優勝を飾ったことは記憶に新しいところです。
まさにマツダの、そしてREのレーシングヒストリーの最初のページを飾ったのが、マラソン・デ・ラ・ルートでのコスモスポーツの活躍だったのです。
最後になりますがコスモスポーツのメカニズムについても紹介しておきましょう。ふたり乗りのグランツーリスモと割り切ったスタイルは、ロングノーズとロングテールで短いキャビンを挟み込んだ、文法通りのデザインでしたが、コンパクトなREの恩恵からノーズが思い切って低く設定できたために、まるで宇宙船のようなイメージで仕上げられていました。
サスペンションはフロントがコイルで吊ったダブルウィッシュボーンの独立懸架で、リヤはリジッドですが、デファレンシャルギヤをアクスルハウジングから分離してデフ(のケーシング)をモノコックフレームに直接取り付けたド・ディオン・アクスルを採用。アクスルはリーフスプリングで吊られていました。
ブレーキはフロントにディスクブレーキが装着されリヤはドラム式。搭載されたエンジンは2ローター式の10Aユニットで、排気量は491cc×2ローターの982㏄でしたが税制的にはロータリー係数(1.5)を掛けて1473㏄とされていました。
最高出力は110ps。エンジン自体が軽量コンパクトで、それに合わせたボディも軽量コンパクトに仕上げられていて全長×全幅×全高が4140mm×1595mm×1165mmでホイールベースは2200mm。車重は940kgに仕上がっていてパフォーマンスはライバルを圧倒していました。