エポックメイキングな進化を続けた歴代ランサーエボリューションの軌跡
ランサーエボリューション(以下、ランエボ)の登場はモータースポーツファンはもちろん、多くのクルマ好きにとって衝撃的な存在であった。ランエボは長年に渡り多くの日本車メーカーがチャレンジしてきた、WRC(世界ラリー選手権)で勝つことが至上命題であったモデルである。三菱は当初ギャランVR-4で参戦していたが、そんななかで1993年のモンテカルロラリーでランエボⅠがWRCにデビューする。
ここでWRCを少し振り返ると、1970年代のWRC黎明期から1980年代初めまでは「連続する12カ月間で1000台以上」の生産車という規定があるグループ2と、「連続する12カ月で500台」のグループ4規定で競技が行われた。いろいろな抜け道がある規則(レギュレーション)であったことから、名社ランチア・ストラトスやアウディ・クワトロなどをデビューさせると、抜け道を探し出したマニファクチャラーが優位になったことで車両規則変更を実施。グループ1などの数字からグループNやAなどに変更されることになった。
ところがグループBという、新規参入を目指した緩い車両規則があったことから、各メーカーがグループBで参戦。結果として事故が多発したことから、またまた規則変更が行われる。1987年に日本のツーリングカー選手権でお馴染みのグループA規定(ベース車両は継続した12カ月間に5000台以上の生産)がWRCでも義務付けられ、そこで活躍していたのが、日本でもファンが多いランチア・デルタやトヨタ・セリカ、三菱ランサーエボリューション、スバル・インプレッサWRXなどである。
そもそも三菱はギャランVR-4で、スバルはレガシィRSで参戦していたのだが、もっと軽量コンパクトなボディが必要となり、ランサーをベースにギャランのエンジンを押し込んだランエボが誕生した。このときのWRCでは2Lターボエンジンと4WDは必須仕様であったため、かつて主流だった欧州勢は激減。日本メーカーもトヨタや三菱、スバルの3メーカーのみが残る形となり、トヨタはセリカGT-FOURでランチアの牙城を切り崩し、1990年に日本車初のWRCタイトル(ドライバーズチャンピオン)を獲得した。
2500台の限定モデルとして誕生したランエボⅠ
ライバルたちの話はさておきランエボに焦点を当てると、これ以上ギャランでの参戦では厳しいと感じた開発陣がコンパクトな4ドアセダンに2L直4ターボエンジンの搭載を提案。1992年9月に誕生したのがランエボだ。型式CD9Aを名乗るランエボⅠは、当時の公認申請(ホモロゲーション)をするために必要な2500台を販売すれば良いだけで、この程度であれば完売するだろうという目論見で限定車として作られた。ボディこそ過酷に使われる輸出先向けをベースに4G63型エンジンを搭載していたが、競技向けのRS以外に装備が充実したGSRの設定があったことが良かったのか、発売されるや否や大人気となる。
宣伝もしていないのに売れるモデルが突然誕生したことから結果的に増産。のちのランエボⅡに繋がることになる。もちろん当初は2代目があるとは想定していないために、現在ではランエボⅠと呼ばれるが、正式名称はⅠが付かないランサーエボリューションであった。
ランエボⅡからさらなる高性能化を遂げたランエボⅢ
1994年1月に発売されたエボⅡは、ランエボⅠの反省をもとに改良が加えられ、各部の素材を変更。ランエボⅠから受け継いだ大型のフロントのバンパーグリルやボンネットのエアアウトレットを踏襲し、まさにエボリューションモデルらしい進化を果たした。タイヤサイズを195/55R15から205/60R15となったほか、最高出力が250psから260psへと向上しており、ランエボⅠが買えなかったファンの溜飲を下げる結果となった。そしてランエボⅢに繋がるのである。
第一世代最後のモデルとなるランエボⅢは、ランエボⅡの人気を受けながら正常進化を遂げた。エンジンの最高出力は+10㎰向上され270psとなり、一段と迫力の増したエアロパーツの装着もあって、ランエボ人気を確固たるものにした。このランエボⅢは、WRCで初めてタイトルを獲得したモデルであり、のちにトヨタのチーム監督として活躍するトミ・マキネンが初タイトルを獲得。三菱のラリー史に燦然と輝くこととなった。
ターボエンジンながら圧縮比を高めるという技術に挑戦して、ターボラグを減らす二次エア供給システム(ミスファイアリングシステム)も追加。個性的なダンデライオン・イエローがイメージカラーだったこともあり、ラリーファン以外からの認知度も高めることに成功した。