サイトアイコン AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

4年ぶりの「ルマンクラシック」に現地密着取材! 日本を代表する名車2台の事前テストをレポート

ルマンクラシックの参戦したドライバー2名

日本が誇る名車2台がルマンに帰ってきた!

 2022年6月30日から7月3日にわたり、フランス・ルマンのサルトサーキットでは、4年ぶりのルマンクラシックイベントが開催された。この人気イベントに、ミニカーブランド「スパーク」の要請で参加することになったマツダ787Bに同行し、筆者は6月27日に南仏サンブックで行われた事前走行テストから取材することになった。

プライベートサーキットでまず事前テスト

「グランサンブック」サーキットは、スパークモデルを企画・生産するMINI MAX社のオーナーであるウーゴ・リペール氏の所有する敷地内にあるプライベートサーキット。南仏マルセイユ空港からクルマで約1時間、TGV停車駅のエクサンプロバンスからは約30分の位置にある。

 周囲は岩肌剥き出しのロッキーマウンテンに囲まれており、この季節はむせかえるような草木の緑に溢れ、あちこちで名産のラベンダーが咲き誇っている。もっとも近い人里であるヴォヴナルグの村には、かの有名な芸術家であるパブロ・ピカソが終の棲家として選んだシャトーが聳えている。

 リペール氏の私有地は、幅1.5km奥行き5.0kmという広大なもので、その中ほどにあるサーキットは一周2.0kmほどの長さだが、程よい直線と中速コーナー、アップダウンのあるタイトなS字とヘアピンで構成されている。マツダ787Bは6月中旬にはこの地に届いており、広島のマツダ本社派遣のエンジニア2名が当地に到着した26日から走行準備が行われた。ドライバーはお馴染み寺田陽次郎だ。

トムス85Cはレースにも参戦する

 もう1台懐かしいレースカーが当地には到着していた。トヨタトムス85Cだ。2.0L直列4気筒ターボエンジンを搭載したグループCカーで、現在は岐阜県在住の個人オーナーの所有となっている。このマシンもルマンクラシック2022に参加予定であり、マツダ787Bがデモンストレーション走行のみなのに対し、トヨタトムス85Cは20数台が出場するグループCレースにエントリーしている。

 ドライバーは、当時このマシンをドライブした関谷正徳とトヨタGRヨーロッパ副会長の中嶋一貴のふたりが予定されている。サンブックでの事前テストには、関谷のみが参加。メカニックとともに26日深夜にマルセイユに到着した関谷は、眠い目を擦りながら27日朝からのテストのため、サーキットのパドックに姿を現した。朝からテストが行われたのは、当地がこの時期雨の少ない南仏に位置し、朝10時を過ぎると一気に気温は30度を超し、昼過ぎには35度から38度にもなるためだ。

 寺田は当年とって75歳、関谷も72歳である。1980年代は火花を散らしたライバル同士であり、ともにサーキットで凌ぎを削った昭和のレーサー戦士だ。しかし、その前の1970年代後半、関谷は静岡マツダの所属であり、一時期東洋工業契約のマツダファクトリードライバーだった時期がある。つまり、寺田とはチームメイトだったのである。

懐かしのポルシェを前に当時を懐かしむ

 午前のテストをしっかり走り切り、ふたりはランチタイムをメカニック、エンジニアたちとリペール氏の私邸(ここも築200年を越すシャトーだ)のホールで過ごした。そこには、伊太利屋カラーにペイントされたポルシェ935K3のモデルカーとフランス人ドライバーの故ボブ・ウォレックの写真が掲げてあった。生前のウォレックと親交のあったリペール氏は、遺族からトロフィーやレーシングスーツなどを遺品として譲り受けているという。

 この伊太利屋ポルシェに対する思い出が、寺田と関谷の共通項であった。1981年の鈴鹿1000kmレースも、この日のように暑い一日だった。マツダRX-7 253に寺田と関谷がチームメイトとして乗ったと記録されている。マツダオート東京がエントリーしたもう1台のマツダRX-7 253には、ニコ・ニコルとトニー・トリマーが乗り、1000kmレースの最終周までウォレックとアンリ・ペスカローロが駆る伊太利屋ポルシェと死闘を繰り広げた、日本のレース史に残る名勝負だった。

 結果は、最終ラップのヘアピンでレースリーダーのRX-7 253に追いついたポルシェ935K3の逆転優勝であった。しかし、寺田・関谷コンビは早い時間帯にリタイヤの憂き目にあっている。ふたりはこのモデルカーの前に立ち、「いゃー、あの日は暑い一日だったよなぁ」と笑った。40年の歳月を超えて、昭和の戦士達は昔のチームメイトの顔に戻ったようだった。

モバイルバージョンを終了