長年GT-Rと共に歩んできたからこそ提案できること
「日産自動車」の商品企画本部でR35型GT-RとフェアレディZの統括責任者を務め、2022年からは両車のブランドアンバサダーに就任した田村宏志氏。現役の“ミスターGT-R”であると同時に、ひとりのオーナーとして平成元年式のR32型スカイラインGT-Rと共に32年以上を歩んできた。「一生モノ」と溺愛するプライベートでの相棒は、これまで手掛けてきたGT-Rのコンセプト造りにどのような影響を与えてきたのだろうか? 田村氏が語る言葉からその真意を見出すことができるはずだ。
(初出:GT-R Magazine 160号)
富士スピードウェイでのGT-R原体験が人生を変えた
わたしの生きざまを決定づけたのは、10歳のときに雨の富士スピードウェイで目の当たりにしたハコスカGT-Rのレーシングカーの走りです。誰しも子供のころには音とか匂い、立ち姿などの刷り込みがあるものです。それをずっといつまでも思い続ける。初恋は忘れられない思い出であるのと同じで、わたしにとってGT-Rは特別な存在なのです。
昭和59(1984)年、「日産自動車」に入社し材料研究所に配属になった後、自ら志願して櫻井眞一郎さんが社長を務めていた「オーテックジャパン」に出向しました。R32型スカイラインGT-Rが発売された平成元(’89)年当時はオーテックジャパンに在籍していました。8月の発売直後だったと思いますが、R32商品主管の伊藤修令さんがシルバーのR32GT-Rでオーテックにいらっしゃいました。櫻井さんに復活したGT-Rを見せに来られたのです。
「誰か乗りたい者はいるか?」と櫻井さんが仰ったので、わたしはいの一番で「はいっ!」と手を上げました。量産車のR32GT-Rはその時が初体験で、うれしさのあまりガンガン走らせてしまいクラッチをダメにしてしまったのです。当然、櫻井さんに叱られました。「借りたクルマを壊すとは何事だ!」と。その際、わたしは「こんなにクラッチが弱いのではダメですよ」と逆ギレのようなことを口走ってしまいました。その後、自分でトランスミッションを降ろしてクラッチ交換をしましたけれど(笑)。
発表前にR32の「すごさ」を体験! 潜在能力の高さに衝撃が走った
R32がデビューする前の’88年、じつは栃木工場の試験場でGT-Rの試作車に乗ったことがありました。RB26DETT(GT-R専用エンジン)の設計を担当していた石田宜之さんから連絡があり、「R32の確認会があるから栃木に来ないか?」とお誘いを受けたのです。試験場には比較用にポルシェ959やアウディクワトロなどもあり、それらと共に試作車に乗ることができました。そのクルマがGT-Rであることは伏せられていましたが、高速安定性や走り出しの瞬間のレスポンスは、それまでの国産車とは別物でした。当時、わたしはFC3S型のマツダRX-7をチューニングして乗っていました。栃木で乗った試作車に「ちょっとイジればすごいクルマになる」というイメージを抱き、「ポルシェ959は確かに速いけれど、コイツは良い勝負ができるのではないか」と思ったのです。
翌年の7月、R32GT-Rよりもひと月早くZ32型フェアレディZが発売され、正直に言うとどちらを買うか迷いました。ただ、両車とも発表直後から大反響だったので「日産の社員は今は買ってはいけない」という空気感があったのです。メーカーとしては、まず最初にお客さまにお届けしなければならない、と。
櫻井さんの下で、自分のような若造がうれしそうに自分のGT-Rに乗っているのもよくない、とも思いました。しかし、たまたま知り合いが諸事情で予約をキャンセルすることになり、「引き取ってくれないか」と言うのです。すでにメーカーには発注済みだったため、色や仕様などは選べません。とはいえ、こんな好機はなかなかないと、購入することにしました。それが今も所有しているガングレーメタリックのR32GT-Rです。
わたしはまだ27歳の若造でしたが、96回払いのフルローンで購入しました。あのころはまさにバブル真っただ中でローンの金利が今では考えられないほど高かったです。総支払額は508万3,000円。今でも注文書を持っています。ただ、金利の高さもあって実際にはトータルで800万円くらい払ったはずです。当時のわたしにとって、年収の2倍くらいするとてつもなく高い買い物であったことは間違いありません。