三位一体の究極の作品
抜群の総合バランスの低層シャーシ、美しいエンジンが生み出すスピードと耐久性でGPレースやヒルクライムで連勝! 芸術的プロポーションでコンクール・デ・エレガンスを席巻! 匠が造り、名手が駆ったメルセデス・ベンツのスポーツカーSこそは、卓越した力・質・美の三位一体のバランスがもたらす究極の作品だった。
とくに、独立ポートからの2気筒ずつの排気をまとめた3本の太いクロームメッキのダウンチューブは、まるでヘラクレスの筋肉の様だ。事実、SSのカタログに付属したパンフレットの表紙には、コンクール・デ・エレガンスグランプリの襷を掛けた図を飾り、次ページにはオーナー名も記されている。
直列6気筒SOHC 6.8Lを搭載したSのエンジンは、シャーシの3分の1を占めるボリューム。当時のコンプレッサーは通常走行では起動させず、いざというときにアクセルの2段階目の踏みしろをさらにフロアまで踏み込むと、突然、落雷のような強烈な衝撃と振動を轟かせながら一気に突進する(最速のSSKLは300HPで240km/hをマークした)。
当時のダイムラー社はこの音が「名機の囁き」に聞こえたらしく、自らこの音響を「路上のストラディバリウス」と会社年鑑に記した。一方、技術陣も負けずに「白いトランペットの合唱だ」と唱えた(昔のレースは出場国のナショナルカラーでボディ色が決められ、ドイツは白)。
また当時、レース界でのライバルだったベントレー(イギリス)すらも、Sが豊富なバリエーションを持ち、単に高性能のみならず優れた居住性や高い耐久性を誇るが故にドライバーを労り、獲得した輝かしいレース戦歴を認めて「脚の長いクルマだ!」と賛美を贈った。
メルセデス・ベンツはジンデルフィンゲン自社工場での一貫生産に絶大なる自信を持っていた為、滅多にボディを外注に出さなった。そこで、限定生産のシャーシを手に入れようと、躍起になって名乗り出た世界一流のコレクターやコーチビルダーがあとを絶えなかったと言われている。
正に真のサラブレッド伝説に相応しい賛美を独占したSのカタログには、おもなオーナー名が誇らしげに記されている。名歌手のアル・ジョルソン(ニューヨーク)、花形レーサーのルドルフ・カラッチオラ(ベルリン)、有名な女流飛行家であるエリー・バインホルンのほか、各国王侯貴族、政財界人、映画俳優、コレクターなど、いずれも錚々たるメンバーである。
輝かしいレースの活躍
数あるメルセデス・ベンツのスポーツ・レーシングマシンの中でも名車中の名車とされており、その高度な設計、最高の材質、入念な仕上げ、そして何にも増して輝かしい勝利の記録において、このSシリーズに匹敵するマシンはないと言われている。その一端をここに紹介しよう。
1927年、ニュルブルクリンクのオープニングレースは、名ドライバーであるルドルフ・カラッチオラのドライブでレーシングバージョンのSが平均101km/hで優勝。続いてスポーツカーで行われたドイツGPにもメルツ、ヴェルナー、バルフの順で3位までこのSが独占した。
カラッチオラは1928年ドイツGPにはSSで出場し、平均103.9km/hで優勝。ゼメリングレースではホイールベースを3000mmに短くしたSSKで平均89.9km/hを記録し優勝した。とくに、カラッチオラは1930年には、SSKを駆ってプラハ、クラウゼンパス、ADAC国際レース、ゼメリングなどで連続的に勝ち、ヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンのタイトルを獲得している。
そして軽量のSSKLモデルはチューニングも施され27/170/300HPまでに発展し、1931年7月19日ニュルブルクリンクのドイツGPでカラッチオラが優勝した。このSSKLのボンネットのカラーストライプは真紅であった。特筆は1931年4月11~12日に開催されたイタリア全土を回るミレ・ミレアで、カラッチオラが白い巨象SSKLで外国人として初めて優勝を飾ったことである。さらに、1931年にもカラッチオラは、このSSKLで1930年に続きヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンに輝いた。
* * *
レースはますますヨーロッパ自動車界の主役になっていった。各メーカーはレースに出ることにより、「技術促進とPRの一石二鳥」を狙ったことで技術の死闘がくり拡げられた。その結果、この時代は自動車が技術的に極めて充実した進歩を遂げたという意味から、先述の如く「ヴィンテージ時代」、とくに良質のワインを造るための「ブドウの豊作の時代」という賛辞を贈られた。