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懐かしの「ラリー・ジャパン」はスバル「インプレッサ」と「ペター・ソルベルグ」の思い出がすべて! 天国と地獄を味わったスバルファンの2004年と2005年とは

2004年ラリー・ジャパン、スバル×ペター・ソルベルグが地元で優勝を飾った

ぺター・ソルベルグ最良のラリーともっとも悔しいラリー

 2019年にペター・ソルベルグの息子、オリバー・ソルベルグがスバル・モータースポーツUSAのインプレッサWRXでアメリカのラリー選手権「ARA」に参戦。筆者もその動向を取材すべく、第8戦のトレイル・パフォーマンスラリーを訪れていた。その週末はペターと一緒にSSを周りながら昔話をしていたのだが、もっとも印象に残っているラリーを尋ねるとペターは即座にこう答えていた。

「シェイクダウンでクラッシュしながらもターマックで勝つことができたからね。2003年のコルシカは印象に残っているし、タイトルを獲得した同年のGBも思い出に残っている。でも、もっとも印象に残っているラリーとしてはやっぱり2004年のラリー・ジャパン。日本のファンの前で勝つことができたから、本当に嬉しかった。それと同時にもっとも悔しかったのは2005年のラリー・ジャパン。勝利を目前にしながらも勝てなかった。2回目のラリー・ジャパンも印象に残っているよ」

2004年:日本初開催のWRCでスバル×ペターが勝利

 たしかに2004年および2005年のラリー・ジャパンはスバルのエース、ペター・ソルベルグが主役だった。そう思えるほど舞台となる北海道帯広市は青一色に染まっていた。

 2001年の「インターナショナルラリーイン北海道」、2002年にAPRCに昇格した「ラリー北海道」を経て、WRCが日本に初めて上陸したのは今から18年前の2004年のことだった。9月2日~5日にかけて北海道の帯広市をホストタウンにシリーズ第11戦として開催。当時のWRCはスバル、三菱の日本メーカーに加えてシトロエン、プジョー、フォードと5メーカーが覇権を争っていた時代だった。

 加えてスバルと人気を二分していた日本の両雄のひとつ、三菱が当時の主力モデル「ランサーWRC04」にマイナートラブルが続出したことから、開発とテストに専念すべく、ラリー・ジャパンを前に活動を休止したことも影響したのだろう。日本初のWRCラウンドとなった2004年の大会には数多くのスバルファンが帯広市に集結。キャパシティの問題もあってSSへの来場者数は制限されていたが、セレモニアルスタートの会場となった帯広駅前のほか、ロードセクションのいたるところに多くのファンが詰めかけていた。

 このファンの声援に応えるかのように、スバル×ペターはインプレッサWRC2004を武器にレグ1から好タイムを連発していた。その勢いは最終日まで続き、11回のSSウインを獲得したペターがスバルにとって初めてとなるホームイベントを制し、母国凱旋を達成。2003年にチャンピオンに輝いたペターは惜しくもディフェンディングこそ逃したが、ラリー・ジャパンの最初のウイナーとして記録にも記憶にも残る1戦となった。

2005年:圧倒的な速さを見せるも最終盤でまさかのリタイア

 このように2004年のラリー・ジャパンは、スバルの母国勝利を演じたペター・ソルベルグがファンの視線を独占していたが、2005年に開催された2回目のラリー・ジャパンでもスバル×ペターが旋風を巻き起こしていた。

 2005年のWRCはスバル、三菱、シトロエン、プジョー、フォード、シュコダと6メーカーが参戦するなど熱いシーズンだった。

 同年のラリー・ジャパンには三菱も3台のランサーWRC05を投入するなどファンの注目を集めていたが、トップ争いの主導権を握ったのは、またしてもスバル×ペターだった。インプレッサWRC2005を武器に3回のSSウインを獲得したペターは、レグ1をトップでフィニッシュするとレグ2でも5回のSSウインを獲得し、後続とのリードを拡大。2番手につけていたプジョーのマーカス・グロンホルムに30秒以上のリードを築いていたことから、ペターはレグ3で余裕のクルージングを見せていた。

 しかし、SS25でペターはレコードラインにあった石にヒットしてしまい、サスペンションを破損。2本のSSを残してリタイアすることになったのである。

 表彰台の中央でグロンホルムが勝利の美酒を味わっているそのとき、ペターはチームのホスピタリティで泣きはらしていたという。同大会では2位入賞を果たしたシトロエンのセバスチャン・ローブに続いて、スバルのセカンドドライバー、クリス・アトキンソンが3位で表彰台の一角を獲得しているが、同大会において筆者が思い出すシーンはやはり、ペターの勝利目前のリタイアで静まり返ったスバルのオペレーションルームである。

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 初期のラリー・ジャパンの思い出を語るとき、おそらく多くのラリーファンが、ペターの勝利と翌年のリタイアをイメージするに違いない。2004年および2005年のラリー・ジャパンはスバル×ペターの話題に終始する大会だった。

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