フォルクスワーゲン・ゴルフよりも先に登場したホンダ・シビック
ホンダが4輪のクルマをつくるきっかけとなったのは、本田宗一郎の強い思いからである。宗一郎は、「子供のころに、T型フォードが走っている後を追いかけながら、地面にこぼれたオイルに鼻をくっつけて、においをかいで刺激されたことが、今日のクルマづくりにつながっているんだ」と、振り返っている(語りつぎたいこと:本田技研工業刊より)。
その思いを実行に移すきっかけは、通産省(現・経済産業省)の特定産業振興臨時措置法案の告示であった。貿易の自由化に備え、国力を保持するため、乗用車/特殊鋼/石油化学の分野について、企業の統合や新規参入を制限する内容だった。ホンダは、まだ2輪車しか製造・販売しておらず、急いで4輪の乗用車の生産および販売の実績を作る必要があった。そして、軽トラックのT360と、オープンスポーツカーのS500を発売するのである。
続いて、軽自動車のN360が誕生し、登録車のホンダ(H)1300が生まれる。
外観は、ノッチバックの3ボックスセダンだったが、搭載されたエンジンは排気量1.3リッターの空冷直列4気筒で、最高出力は100馬力に達し、日産サニーやトヨタ・カローラを大きく上まわった。しかし、サニーやカローラが後輪駆動(RWD)であったのに対し、H1300は前輪駆動(FWD)で、前輪のタイヤ摩耗が激しかったり、運転操作に癖があったりするなど、必ずしも販売は好調とはいえなかった。
シビックの開発時に生まれた「マン・マキシマム」思想
次のシビック開発を任されたデザイナーの一人は、当時を振り返り「(生産)ラインにはH1300がポツン、ポツンとしか流れていなかった。こんな状態なのかと、愕然としました」と語っている(語りつぎたいこと:本田技研工業刊より)。
車両企画を練り上げるなかでこだわったのは、「今、ホンダがどういうクルマを創らなければいけないか、そして、純粋に今必要なクルマとは何か」を徹底的に追求することだった。
引き出された答えは、2ボックスの姿で、前輪駆動(FWD)の小型車だった。他社との比較でよりよいことではなく、当時のホンダが考えた最良の小型車の姿である。また、その車体寸法は、ホンダの2輪車販売店でも扱えるようにと、5平方メートルに収まることを求めた。
限られた大きさのなかで、人をいかに快適に移動させるか。そこから、マン・マキシマムという思想が生まれる。人の空間を最大にという意味だ。マン・マキシマム・メカニズム・ミニマムという、ホンダのクルマづくりの根本思想が定義づけられた。これは、今日もどの車種についても守り抜かれている。
シビックは、1972年に発売された。当時はまだ、今なお世界の小型車の規範とされ続けるドイツのフォルクスワーゲン・ゴルフは生まれていない。ゴルフが発売されるのは、2年後の1974年だ。
CVCCやRSを追加しながら現代へと続く
しかも、初代シビックは、世界で最初に排出ガス規制を実現したCVCCを1973年に採用している。続く1974年には、高性能車種としてRS(ロード・セーリング)を追加した。
人々のためのクルマとして誕生したシビックは、いち早く環境基準をCVCCで達成し、それに止まらず運転を楽しめるRSも用意した。この姿勢は、現行シビックまで継承されている。
1.5リッターガソリンターボのシビックに加え、2モーターハイブリッドのe:HEVを採用する低燃費車、そしてRSとは異なるが、タイプRという高性能エンジンを搭載した運転を楽しむための選択肢も用意されている。
車格は3ナンバー車となったが、1970年代から現代へ経済成長により生活水準は改善されたなかで人々のクルマであり続け、同時にまた、容易ならざる気候変動の問題を抱えたいまに適応し、それでもクルマを楽しむ一台を選べるという、初代シビックから受け継がれた伝統に、変わりはないのではないだろうか。