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BMW「M」誕生50周年! 「M1」から続く初期「Mモデル」とレースでの輝かしい功績を振り返る

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TEXT: 池ノ内みどり(IKENOUCHI Midori)  PHOTO: BMW AG

  • ニュルで飛ぶ3.0CSL

  • BMW M1
  • ニュルで飛ぶ3.0CSL
  • 3.0CSLの市販モデル
  • E30 M3 EVO1
  • 現代のニュル24h
  • 1602のEV
  • BMW Motorsport社屋

BMW Mの歴史はミュンヘンオリンピックの開催年に始まった

 1972年5月1日、ミュンヘンオリンピック開催を目前に沸くこの年、BMW本社の4シリンダービルにほど近いプロイセンシュトラーセ(プロイセン通り)に、事務机と1台の電話、そしてわずか数名の社員で構成されたBMWの100%子会社として「BMW Motorsport GmbH(GmbH=有限会社、以下「M」と表記)」が誕生した。

BMW Motorsport社屋

 その初代代表取締役兼、モータースポーツディレクターに任命されたのは、元ポルシェのワークスドライバーであり、フォードではドライバーのほかモータースポーツディレクターとしても活躍した、当時35歳のヨッヘン・ネアパッシュだった。

 BMWといえば、そのスポーティな走りを活かし、すでに1920年代から顧客たちがレース活動を楽しみ続けていたのだが、1972年に社内で専門部署を設け、本格的にモータースポーツ活動を始動すると決定した際、レーシングドライバーとして、またディレクターとして経験豊富なネアパッシュがBMWへ招聘された。

 また、その「M」を陰で支えたのは、「エンジンの神様」と称されるBMWのパウル・ローシェと、名門シュニッツァーモータースポーツの創業者でもあり、元レーシングドライバーでエンジンのスペシャリストであったヨーゼフ・シュニッツァーだ。このBMW Motorsport GmbHの基礎をともに築いた立役者でもあり、数々の名エンジンを開発してきたのだ。

伝統あるニュル24時間レースとともに歩んできた「BMW Motorsport」

 おりしもドイツは高度成長期の1960年代から続くマイカーブームで、安く購入した中古車を自らいじって楽しむ若者が、こぞって草レースを楽しんだ。昨今は草レースとは呼べなくなったニュルブルクリンク24時間耐久レースでは、今も昔もそのような手弁当で楽しみながら参戦するチームが多く存在している。

現代のニュル24h

 その一方で、「M」をはじめ、ドイツプレミアムブランドであるアウディ、メルセデスAMG、ポルシェなどが社運を懸けて参戦するSP9クラス(GT3マシン参戦クラス)は、もはやワークスドライバーたちの熱き戦いの場となっている。

 世界中のファンを熱狂させるこのレースも、50周年を迎えた「M」と並び、2022年に50回の記念大会を迎えた(1974年と75年はオイルショックで中止)。両者は互いにリスペクトし合い、半世紀もの間をともに成長してきたのだ。「M」の開業初年度は、1972年第1回大会のニュルブルクリンク24時間耐久レースへの参戦はしていないものの、カスタマーチームのサポートとして現地でレースを支えている。

レースで得たノウハウを生かし特別な市販モデルの開発をスタート

 レース活動のかたわら、「M」が初めて手がけたハイパフォーマンスロードカーは大きなリヤウイングが特徴的な「3.0 CSL」、通称「バットモビール」。のちに数々と発売される特別モデル「CSL」の元祖だ。

3.0CSLの市販モデル

 当時は現代のようなコンピュータもない時代、「M」のファクトリーにて新たな機能や装備などは、メカニックがすべてひとつずつ手作業で開発・実験テストをしていたという。それが当たり前の時代とはいえ、かなりの手間だが、新しいテクノロジーに将来性を感じ、日々の新たな発見に「M」での毎日は輝かしかったと、当時のメカニックらは懐かしそうに語る。

 ヨーロッパツーリングカー選手権などで3.0 CSLは華々しく活躍するも、おりしも1973年から、世界中を襲ったオイルショックによりドイツやヨーロッパのレースが軒並み中止に。活動が思うようにできず、オイルショックの影響が少なかった北米へ活動の軸を移した。いまやMモデルの売数の半数以上を占める北米だが、当時はまったくの無名でアメリカ人の多くが「(B)ババリアン(M)モーター(W)ワークス」という見知らぬ社名に首を傾げたという(BMWの名称であるバイエルン・モトーレン・ヴェルケの英語読み)。

 ここから始まった北米のIMSAシリーズへの挑戦は、いまもなおBMWモータースポーツの主要な活動のひとつとして精力的に続けられている。

 また、アメリカ人の現代美術家のアレクサンダー・カルダーによって1975年に描かれた3.0 CSLの「アートカー」は、BMWのアートカー第1号。後世に残る芸術作品としても有名で、文化財として保存されている。このBMWアートカーは、レーシングカーおよび量産車に芸術家が自由な発想で個性的なカラーリングを施すというもの。これまでに20台が誕生している。

現代に続くMモデルの始まりとも言える「M1」

 次に「M」が手がけたのは「M1」。グループ4およびグループ5用のホモロゲーションを取得するために年間800台の生産を見込んでいたモデルだ。BMWといえば当時からFRが定番であり、ミッドシップのスーパースポーツカーはBMWにとっても手がけるのは初めてのこと。そのためランボルギーニ社とともに開発し、製造を委託した。

BMW M1

 ロードカーのM1は当時のドイツ車最速を誇り、その斬新なデザインと走りはセンセーショナルで、そのほかのドイツメーカーにも多大な影響を与えた。当初はV8もしくは10気筒エンジンの搭載を予定していたそうだが、その分車重がネックとなり、直6が選ばれている。量販車が277ps、レーシングカーが480ps、そしてターボ付きが850psという、かなりのハイスペックだ。

 イタリアのランボルギーニ社では車両製造のキャパシティがあったものの、5台のプロトタイプを製造した時点で、倒産危機に陥る。急遽、シュトゥットゥガルトのバウア社が請け負うことになるも、結局はホモロゲーション取得の年間400台に届かず。総生産台数も460台しか作る事ができなかった(台数に関しては諸説あり)。

 予定の半分ほどしか実際にはデリバリーができなかったため、ホモロゲーション取得が叶わず、すでに生産されていたレーシングカーの行き先がなくなってしまう。そのため急遽ワンメイクによるプロカーシリーズとしてレース開催を決定。ネアパッシュはさっそくF1を率いていたバーニー・エクレストンとマックス・モズレーと話し合いを持ち、1979~80年のF1の欧州戦のサポートレースへと組み入れられたのだ。

 しかも、F1の予選をトップ5以内で通過したドライバーが、他の15名のプライベートドライバーと肩を並べてこのプロカーシリーズに参戦するというクレイジーなレースフォーマットで行われた。F1ドライバーにとっては、自身の大切なF1の決勝レース前にM1プロカーでガチンコ勝負をするという驚きのレースだったが、F1ドライバーとしての意地もあり、大いに盛り上がった。

 現在もクラシックレースで活躍し、大きなアフターファイヤを吹きながら、低音のエキゾーストノートを轟かせて走り抜けるその姿は、多くのファンを魅了している。

 M1にもアートカーは存在する。アメリカのポップアートの第一人者であるアンディ・ウォーホルがミュンヘンのプロイセン通りのファクトリーへ訪れ、職員がまだ準備中のファクトリー内に入って来て、あっという間に仕上げたことでも有名。このM1アートカーもBMWのアートカー史上に残る大変貴重な1台だ。

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