2022年11月、12年ぶりに開催される「ラリー・ジャパン」
2022年11月に愛知・岐阜を舞台として12年ぶりに開催が予定されている世界ラリー選手権(WRC)「ラリー・ジャパン」。その予習として、かつて北海道で2004年~2010年の間に計6回開催されたラリー・ジャパンの軌跡を振り返ってみよう。今回は2006年と2007年だ。
2006年:新井敏弘選手がWRカーで母国ラリーに参戦
2006年のラリー・ジャパンを語るときに欠かせないトピックスといえば、なんといっても新井敏弘のWRカーでの参戦と言えるだろう。「2005年のPWRCでチャンピオンを獲得したから自分の実力を試してみたかった。もう一度、ワークスチームのマシンで、パフォーマンスを証明したかった」と語るように、新井はスポット参戦ながら、スバルワールドラリーチームの「インプレッサWRC2006」で母国ラリーに参戦したのである。
1997年の全日本ラリー選手権でチャンピオンに輝いた新井は、1998年より本格的にWRCへの参戦を開始。1999年にはグループNで初優勝を獲得したほか、2000年にはカスタマーチームながらWRカーで参戦するようになり、アクロポリスで4位に入賞していた。その結果、新井は2001年にスバルワールドラリーチームに加入し、3台目のWRカーでWRCに参戦するものの、目立ったリザルトを残せないままチームを離脱した。そして、翌2002年からグループN車両の世界選手権、PWRCに参戦していたのである。
2002年にPWRCに参戦するようになってからも新井は体制変更や不運が重なり、足踏み状態が続いていたが、参戦4年目となる2005年は計4勝を挙げ、悲願のタイトルを獲得していた。
それだけに新井がWRカーでどのような走りを披露するのか、ラリーファンの注目を集めていた。実際、ワークス復帰を果たした新井は都内の記者会見、現地ディーラーでのトークショー、決起集会など、スバルのプローモーション活動に参加していたが、ペター・ソルベルグ、クリス・アトキンソンらレギュラードライバー以上に注目を集めていた。
しかし、当時のスバルの主力モデル、インプレッサWRC2006はハンドリングおよび冷却系統に問題を抱えたマシンで、ラリー・ジャパンでもスバル勢は苦戦を強いられていた。レグ1でエースのペター・ソルベルグにブレーキトラブルが発生したほか、新井もレグ1でクラッチトラブルが発生。さらにレグ2で足まわりのセッティングに苦戦を強いられたのだ。
そんななかでも、「やっぱりトップ3は速かったね。それでも、やれることはやれたのでほっとした」と語るように新井は6位入賞。2000年のアクロポリスと2001年のキプロスで記録した自己最高位の4位には届かなかったが、当時は6メーカーが参戦した時代であり、マシンの実力を考えれば殊勲のリザルトだと言えるだろう。
2007年:リタイア続出! 「サバイバルラリー」をミッコ・ヒルボネンが制す
一方、2007年のラリー・ジャパンを回顧する場合、真っ先に思い浮かぶキーワードが「サバイバルラリー」だ。
というのも、フォードのエース、マーカス・グロンホルムがSS4で転倒し、そのままリタイアしたほか、SS5ではスバルのエース、ペター・ソルベルグもギヤボックスのトラブルでその日の走行を断念。さらにSS6ではチームメイトのクリス・アトキンソンがクラッシュでマシンを止めるなど、レグ1からワークス勢が脱落していた。
さらにレグ2のSS13ではシトロエンのエースとして2番手につけていたセバスチャン・ローブがコースアウト。当時のWRCはシトロエンのローブ、フォードのグロンホルム、そしてスバルのペターを加えた「3強」で上位争いが展開されていたが、まさに2007年のジャパンは「3強」を含めてワークス勢が総崩れとなるサバイバル戦が展開されていた。
この波乱の展開を演出した要因は雨によるウエットコンディションだったが、この過酷なラリーを制したのは、フォードのセカンドドライバー、ミッコ・ヒルボネンで自身3勝目。ちなみに、同年のフォードはマニュファクチャラーズ部門で2連覇を果たしたが、このミッコのラリー・ジャパンの勝利がタイトル獲得に大きく貢献したことは言うまでもない。
2位にシトロエンのセカンドライバー、ダニ・ソルド、3位にフォードのセカンドチーム、ストバード・フォードのヘニング・ソルベルグが付けるなど「3強」が不在のポディウムとなったことも、2007年のラリー・ジャパンがいかにサバイバルで、脱落者が続出したかを物語るワンシーンとなった。