スポーツ走行に適したセッティングが可能なチューニングパーツも豊富だった
近年の世界ラリー選手権(WRC)ではエアロパーツの大型化によって、市販車ベースとは言うものの、ベースモデルの印象が薄い競技車も増えてきました。かつての競技車は、小さなスポイラーとオーバーフェンダーを装着しただけで、街なかを走るロードカーと同じスタイルで戦っていました。今回は、そんな懐かしい時代のWRCで、その存在をアピールする三菱の主戦マシンを務めていた、ランサーEXターボを振り返ります。
ラリーの三菱が初代ランサーに次ぐラリーマシンとして開発
三菱自動車は、1960年代から海外ラリーに参戦を続けてきました。1967年にはオーストラリアで開催されていたサザンクロスラリーにコルト1000Fで参戦し、総合4位/クラス優勝。1972年にはコルト・ギャラン16Lで総合優勝を果たしています。
そんな三菱が、ギャランに続いて主戦マシンに選んだのは1973年に初代モデルが登場したランサーです。これは1971年に登場していたギャラン・クーペFTOのサルーン(セダン)版とでもいうべきモデルでしたが、三菱の期待に応えるべく、最強モデルの1600GSRは同年のサザンクロスラリーでデビュー・ウィン。それも総合1~4位を独占するという見事な勝ちっぷりを見せていました。
さらに翌1974年以降1976年までランサー1600GSRはサザンクロスで4連覇を果たしています。これに加えて1974年には初のWRC参戦となったサファリラリーで見事総合優勝を飾り、ラリーの三菱をアピールすることになりました。
1976年にはサファリで2勝目……総合1~3位を独占する、これも見事な勝ちっぷり。しかし翌1977年にバンダマラリー(1976年までラリー・バンダマと呼ばれていましたが、1977年にはラリー・バンダマ・コートジボワールと国名が入るようになり、1979年からはラリー・コートジボワールに大会名が変遷)において、アンドリュー・コーワンが優勝を飾りました。WRC(この年のバンダマはドライバーズ選手権のみがかけられていました)3勝目を飾ったのを限りに三菱は、海外ラリー活動を一時休止。
そんな三菱が海外ラリーの活動を再開したのは1981年のこと。このときの主戦マシンは1979年に誕生したランサーの2代目、従来モデルをはるかに卓越した、との想いを込めExceedを表すEXのサブネームがつけられた今回のストーリーの主人公、三菱ランサーEXでした。
そもそもギャランとミラージュの間を埋めるモデルとして企画されたランサーは、2代目ギャランが1976年のモデルチェンジでギャランΣに移行した際に大きくサイズアップしたのを受け、2代目ランサーとなるランサーEXも、2代目ギャランよりも少し大きめのボディで登場しています。
具体的なサイズとしては全長×全幅×全高と車重が、それぞれ4225mm×1620mm×1395mmと1005kgとなり、初代ランサー(3960mm×1525mm×1360mmで825kg)に比べると全長と全幅でそれぞれ+65mm、+95mmと大きくなり車重でも180kgも重くなっていました。
それでもエンジン出力が初代のトップモデル、1600GSRの110psからランサーEXのトップモデル、1800ターボの135psへとパワーアップされていました。排気ガス対策で牙を抜かれたクルマが増えてきたなかでは、ファンが期待を寄せる1台でした。
さらに、これは輸出専用グレードですが2Lターボの4G63ターボを搭載したランサーEX 2000ターボも登場。最高出力は168psまで高められていました。一方、シャシーの方も2代目に進化するに際しては着実にブラッシュアップされていました。
ボディが大きくかつ重くなったというネガティブな一面もありましたが、フロントのサスペンションは、初代ランサーでもラリー仕様として十分な開発実績のあるマクファーソン・ストラット式を採用。リヤサスペンションはリジッドアクスルでしたが、初代がコンサバなリーフ・リジッドだったのに対して、この2代目では前方から伸びた2対4本のリンケージでコントロールしたリジッドアクスルをコイルスプリングで吊るというもの。ターボ登場以前から国内ラリーなどで活躍し、スポーツ走行に適したセッティングが可能なチューニングパーツも豊富でした。
1800のNAモデルが国内ラリーで先鞭をつけターボが国内外で好成績
国内ラリーではJAFの車両規定が変更され、それまで許されていたエンジンチューニングが禁止されるようになりました。1979年の全日本選手権ラリーでは三菱車のなかではミラージュ1600GTが主戦マシンを務めていましたが、1980年シーズンにはランサーEXの1800GSRが投入されました。
ただしNA1.8L/100psのパワーでは非力さは否定できません。それでも渾身のドライブを続けた大庭誠介選手がシリーズ3位に食い込んでいました。彼のドライビングによるところは大きかったのですが、4輪ディスクブレーキがおごられるなど、シャシー性能の高さも見逃せなかったようです。
この1980年シーズンの反省からか、1981年シーズン、国内ラリーにおける三菱勢の主力は145psエンジンを搭載したギャランΣターボが投入されることになりました。2Lターボから絞り出されるパワーは大きなアドバンテージだったようですが、その反面ボディが5ナンバー枠いっぱいにまで拡大し、車両重量もランサーEXに比べて200kg以上も重くなっており、ハイパワーのアドバンテージも相殺されてしまいました。
チューニングパーツも揃っていなかったデビュー戦で大庭選手が4位入賞した際には大きく注目されましたが、結果的にそれ以降は目立った結果を残すことができないままシーズンが終了しています。
一方、1981年の11月にはランサーEXにラリーカーの本命ともいうべき1800ターボGSRが追加設定され、こうした状況を受けて1982年シーズンの国内ラリーには大きな期待とともにランサーEX1800ターボGSRが投入されることになりました。
そして結果は、ランサーEX1800ターボGSRの圧勝に終わりました。全10戦中7戦で優勝を飾り、勝てなかった3戦のうち特殊なスノーラリーの開幕戦、DCCSウィンターラリーではスバルが大差で優勝しています。ランサーEX1800ターボGSR勢では大場選手の5位がベストリザルトでしたが、第2戦のKANSAI RALLYから第4戦のTOUR de SHIKOKUまで3連勝。
第5戦のクロス&イーグルと第6戦のKASC岩手山岳ラリーは2戦続きでいすゞジェミニに優勝を許したものの第5戦では2~3位に、第6戦では2~4位に、それぞれランサーEX1800ターボGSR勢が続きました。そして第7戦のMSCC東京ラリーから最終戦の鳥海ブルーラインまで4連勝を飾り、シリーズでは3勝を飾った神岡政夫選手がチャンピオンを獲得しています。
ランサーEX1800ターボGSRが国内ラリーで大活躍を見せた1982年シーズンですが、国内だけでなく世界ラリー選手権(WRC)においてもランサーEXの雄姿を見ることができました。WRCに参戦するために、より競争力を高めたグループ4仕様は、三菱の岡崎工場で開発が進められたのちに船積みされてヨーロッパに渡り、1981年シーズンのWRC第4戦(ドライバー選手権戦としては第5戦)を前に記者発表が行われています。
外観ではインタークーラー用のダクトが設けられた大型のエアダムスカートや大きなオーバーフェンダー、そしてトランクリッド後端に取りつけられたトランクスポイラーが目立つ程度でしたが、その中身はグループ4仕様ということで極限までチューニングが施されていました。
まずは気になるエンジンですが、三菱製の大径ターボチャージャーに交換するとともにインタークーラーも装着し、最高出力は280psにまで引き上げられました。これに対応するようにシャシーも、当然のように強化。
もちろん、フロントがマクファーソン・ストラット式、リヤがコイルスプリングで吊った4リンク式リジッドという基本形式には変化がないものの、前後のスプリングやダンパーなどはヘビーデューティなものに交換されていましたし、リヤアクスルがフルフローティング式に変更されていました。
またブレーキは、ベースモデルでも4輪ディスクが採用されていましたが、グループ4仕様では全輪ベンチレーテッドに格上げされていたことも大きな特徴でした。ランサー・ラリーターボのデビュー戦は1981年のアクロポリスで、このときは2台ともにトラブルでリタイアしてしまいましたが、続いて参戦した1000湖(現在のラリー・フィンランド)では3台すべてが完走し10~12位につけています。
さらにRAC(現在のウェールズ・ラリーGB)ではアンドレ・クーラングが9位入賞。そして迎えた82年シーズン、1000湖で3位入賞を果たすことになります。4輪駆動を武器にアウディ・クワトロのハヌー・ミッコラとスティグ・ブロンクビストが1-2で上位フィニッシュし、ペンティ・アイリッカラのランサーは、後輪駆動車最上位となる3位チェッカーでした。
ただし、すでに後輪駆動ではこれが限界と判断され、三菱はふたたびWRC参戦を休止することになりました。その後、三菱ではスタリオンのグループBやギャランVR-4、ランサー・エボリューションなどを開発してWRCに再度挑戦。エースのトミ・マキネンが1996年からWRCのドライバーズ部門で4連覇を遂げ、1998年にはマニュファクチャラーも併せて見事なダブルタイトルを飾っています。