ターボモデルは幻で終わってしまった
トヨタ7(トヨタセブン)は、1968年に登場するトヨタ初のレース専用車だ。
1963年に、第1回日本グランプリが三重県の鈴鹿サーキットで開催された。そのときはまだ、日本車のレース専用車はなく、スポーツカーも日産フェアレディなど数少なかった。一方、海外からはすでにスポーツカーでの参戦があり、日本車は軽自動車や小型車以外のクラスで海外勢に圧倒された。
翌年になると海外のレーシングカーも参戦が増え、国内からは1966年にプリンスR380(のちに日産R380)が満を持して登場する。しかしトヨタは、生産車での参戦にこだわり2000GTで戦ったが、優勝争いには加われなかった。
そこで方針転換がはかられ、誕生するのがトヨタ7だ。ただし、トヨタは量産市販車の開発に手一杯で動きがとれず、2000GTの開発からつながりのあったヤマハに依頼する。条件は、日本の技術で成し遂げることだった。この考え方は、1955年に本格的乗用車として発売されたトヨペットクラウンに通じる。その後のコロナやカローラも、トヨタは自社の技術による開発と製造にこだわった。
ヤマハのほかに、トヨタ傘下となったダイハツも空力的な開発に力を貸したといわれる。ダイハツは、1966年以降、レーシングカーを独自に開発し、日本グランプリへの挑戦を行っていた。
燃費のよさや操縦性の高さも勝敗を左右した
初代のトヨタ7は、1968年の日本グランプリに参戦し、日産R381やポルシェカレラ10と戦ったが、総合8位に終わっている。トヨタ7がV型8気筒とはいえ排気量3Lであったのに対し、日産R381は5.5Lエンジンを搭載していた。
ポルシェカレラ10は排気量の小さな水平対向エンジンだったが、スポーツカーメーカーとしてレーシングカーの開発にも秀でており、総合性能で力を発揮したといえるだろう。当時の日本グランプリは500km近くの走行距離であり、途中で給油が必要になった。エンジンの馬力はもちろん、燃費のよさや操縦性の高さも勝敗を左右した。
雪辱を晴らすため、トヨタ7も2代目では排気量を5Lへ拡大。1969年の日本グランプリは日産と雌雄を決することになったが、ここでも日産R382が1~2位となり、3位にトヨタ7という結果に終わった。
ターボエンジン車でのトヨタ対日産の決戦を期待されるも……
ここまで、トヨタも日産も大排気量とはいえ自然吸気のエンジンで戦ってきたが、1970年へ向け、それぞれターボエンジンによるさらなる馬力競争を試みようとしていた。ところが、1970年に米国でマスキー法による排出ガス規制が勃発し、トヨタと日産も日本グランプリへの参戦を止めた。3世代目となるトヨタ7のターボエンジン車も、日産R383も、本戦に姿を見せないままお蔵入りとなったのである。
トヨタ7は、日本グランプリという檜舞台での勝利は得られなかったが、ほかのレースで優勝を飾っており、ターボエンジン車でのトヨタ対日産の決戦は当時、大いに期待されていたのであった。
2000GTやトヨタ7の開発で技術の高さを示したヤマハは、1980年代になるとF2エンジンでホンダと競い、1980年末から1990年代にかけてはF1へも進出した。