多くの家庭にクルマのある生活を実現させた
現在ではヤリスが担っているトヨタのエントリークラスですが、ヴィッツ、スターレットと遡っていくと、1961年(昭和36年)に誕生した初代パブリカ(UP10系)に辿り着きます。パブリカは、クラウン(1955年)とコロナ(1957年)に次ぐトヨタ第3のモデルラインで、エントリーカーのハードルをまた一段引き下げることで国内のモータリゼーションを大きく進化させることに繋がりました。今回は初代パブリカを振り返ります。
国民車構想に応えた大衆のクルマ
昭和30年代といえば、経済白書に「もはや戦後ではない」のフレーズが踊っていた時代でした。ただ、このフレーズは戦後の焼け野原から復旧・復興してきた、と讃えたものではなく、じつは戦後復旧がひと段落しており、さらなる経済発展のためには新たな展開が必要だ、との意味合いがあったようです。それはともかく、時の池田勇人首相が唱えた「経済倍増計画」も現実のものとなっていった時代でした。
そんな昭和30年代に、新たに経済発展をけん引することになったのが自動車産業でした。なかでも通産省(通商産業省。現在の経済産業省)が取りまとめていた「国民車育成要綱案(国民車構想)」が日本経済新聞や日刊工業新聞にスクープとして掲載されたことで、大衆車の開発が一気に進むことになりました。
国民車構想というのは、排気量が350~500ccで最高速は100km/h以上、60km/h定地走行時の燃費が30km/L以上。そして10万kmを走行しても十分な耐久信頼性を持ち、販売価格は25万円以下……などの性能要件を満足するクルマを生産できたメーカーは政府が支援する、というものでした。
これは現在のレベルで考えてもなかなか高いハードルでしたが、各自動車メーカー(とその予備軍)にとっては大きな開発目標であったものの、現実的には、すべての性能要件をクリアするクルマが登場することはありませんでした。ですが、各メーカーの技術者たちにモチベーションを与えるものとなりました。
ところがトヨタでは、この国民車構想が世に漏れ出る以前から小型車開発のプロジェクトがスタートしていたのです。それは当時技術担当だった豊田英二専務(のちにトヨタの5代目社長)から、排気量が500~600cc程度で前輪駆動の小型大衆車の開発が提案されたのがきっかけとなりました。
実際には翌1955年から開発プロジェクトが進められ、当初はシトロエン2CVに倣った前輪駆動を採用する予定だったようです。しかし、駆動系の開発コストと信頼耐久性の確保など、当時の技術では解決不可能なことも多く、結果的にフロントにエンジンを搭載し、オープンタイプのプロペラシャフトで後輪を駆動するFRレイアウトに落ち着いています。
1961年に登場した初代パブリカの、ダブルウィッシュボーンを縦置きトーションバーで吊るフロントサスペンションは、前輪駆動で設計していた当時の名残……ドライブシャフトを通すために、コイルスプリングを配置するスペースがなかったのが理由とも伝えられています。シャシーに関しての紹介を続けますが、リヤサスペンションはリーフスプリングで吊ったリジッド・アクスル式です。
ブレーキは前後ともにドラム式で、駆動レイアウト以外でもシャシーは、基本的にはコンサバにまとめられていました。一方エンジンは、トヨタとしては初の、そしてこれが結果的には唯一となる空冷水平対向2気筒OHVのU型エンジンが搭載されることになりました。
U型エンジンは排気量697cc(ボア×ストローク=78.0mmφ×73.0mm)で最高出力は28ps。OHVとは言うものの、プッシュロッドの配置を工夫して燃焼室をクロスフロータイプとするなど、技術的には凝った設計となっていました。
ちなみに、OHVながらプッシュロッドのレイアウトを工夫してクロスフローの燃焼室を実現した例としては、1967年に登場した初代センチュリーに搭載されていた3V型系の一連のエンジン群も、同様のレイアウトを採用していました。
パブリカに搭載されたU型エンジンのような水平対向2気筒とは違い、3V型系エンジンではV型8気筒とマルチシリンダー化がなされており、設計開発の大変さは容易に理解できます。ちなみに3V型系のベースとなったV型エンジンは1964年にクラウン・エイトに搭載されて登場した、トヨタにとっては初のV型8気筒エンジンということで、プッシュロッドを一列に並べ、一般的なウェッジ型の燃焼室が採用されていました。