名称は一般公募だった
販売に際してトヨタは、並々ならぬ力の入れようでした。1960年の全日本自動車ショー(現在の東京モーターショー)でプロトモデルをお披露目すると同時に、車名公募の大キャンペーンが発表されています。新型車1台と、合計で100万円の賞金が用意されるという大盤振る舞いで、100万通を超える応募がありました。
決定したネーミングのパブリカ(Publica)はPublic Car(英語で大衆車)を略した造語で、これ以降、大衆車という言葉と概念が、国内でも広まっていきました。発売開始は翌1961年の6月でしたが、トヨタはこれに先んじて、それまでのクラウンを扱うトヨタ店と、コロナを扱うトヨペット店というふたつのディーラー・ネットワークに加え、3番目のネットワークとなるパブリカ店を全国に整備していきます。
販売価格は38万9000円で、これは軽自動車の先駆車であるスバル360が、何回かのプライスダウンを断行して1961年当時に実現していたスタンダードの36万5000円には及ばないものの、同年に登場したマツダ・キャロル360デラックス(39万5000円)やスズキのスズライト・フロンテ360(38万円)とほぼ同等で、大ヒットとなる予感もありました。
デラックスを追加するなど力の入った販売戦略
しかし、意外にも販売は伸び悩むことになりました。それは実用性と経済性を追求して質実なクルマ作りを実践した結果、庶民のクルマに求める豪華さやステータス性に欠けるものとなっていたのです。
そこでトヨタは発売2年後の1963年に、ラジオやヒーターなどに加えてステンレス製のサイドモールやクロームメッキされたフロントグリルなどの“豪華装備”を標準装着していたデラックス・グレードを4万円高で追加発売し、それまでのモデルをスタンダードとしています。このことでパブリカの販売は急上昇をはたすとともに、のちの販売手法にも活かされ、カローラがサニーに対して『+100ccの余裕』を訴求したのはその好例でした。
パブリカはその後1966年には大幅なマイナーチェンジを受け、排気量を拡大したパブリカ800に移行していきます。搭載されたエンジンは2U-C型で排気量は790cc(ボア×ストローク=83.0mmφ×78.0mm)、最高出力は36psでした。じつは790ccの2U系はすでに、65年に登場した、“ヨタハチ”の愛称で知られるトヨタ・スポーツ800に初搭載されていました。これは2U-Aの型式で呼ばれ、ツインキャブを装着するなどのファインチューニングが施され、790ccの排気量から45psの最高出力を絞り出していました。
そしてこの2U-Aエンジンは、800ccに移行したパブリカ800のホットモデル、パブリカ・スーパーやルーフを取り払った4座オープンのパブリカ・コンバーチブル&デタッチャブルトップなどにも搭載されることになります。
700で28ps、800で36ps、ツインキャブを装着したヨタハチやコンバーチブル用で45psという数字はいかにも非力な印象がありますが、エンジン重量が80kg前後と軽く、結果的に車両重量も軽量に仕上がっています。パブリカ700では580kg、パブリカ・コンバーチブルでも625kg、ヨタハチは580kgといずれも軽量で、最高出力の数字以上のパフォーマンスを発揮していました。そして何より多くの家庭にクルマのある生活を実現させた功績は大きかったようです。