「モータースポーツで活躍してクルマを売る」のはフォード創設時からの信念
1996年にフォード・ジャパン・リミテッドが撤退し、現在わが国では正規輸入が途絶えているフォード。だが、世界的に見れば今なお年間数百万台の販売台数を誇る世界有数の巨大メーカーであり、近年ではフォルクスワーゲンやトヨタ、GMなどに次ぐセカンド・グループで、ステランティス、ルノー連合、ホンダ、そして現代自動車や上海汽車などとそのシェアを競っている。そんなフォードはまた、古くからモータースポーツにも積極的なことで知られるが、その原点とも言えるのがこの「999」だ。
駆け出しのフォードが名を売るには「速さ」が必須だった
少年時代から機械に興味のあったヘンリー・フォード(1863年~1947年)は、青年時代に工業都市・デトロイトで見習い機械工としてとして研鑽を積んだ後、発明王エジソンの「エジソン電気照明会社」に入社。技術者として働くかたわら、そこで個人的に「クアドリサイクル」、あるいは「ファースト・フォード」と呼ばれる最初の試作車を完成させる。時に1896年、フォード33歳の時であった。
その可能性に着目した出資者たちの協力を得て、フォードは1899年「デトロイト・オートモビル・カンパニー」を設立、本格的に自動車業界への参入を果たす。しかしフォードは投資家たちとの意見の相違から、わずか1年余でデトロイト・オートモビル・カンパニーを退職。自らの理想とするクルマ作りのために捲土重来を期すのであった。
当時のアメリカでいち早くガソリン自動車の製造・販売を手掛け成功を収めていたのが、1897年にアレクサンダー・ウィントンが設立した「ウィントン・モーターキャリッジ・カンパニー」であった。史上初のアメリカ製市販ガソリン車として知られるウィントンは競馬場で速度記録に挑戦したり、自社のクルマで本拠地クリーブランドからニューヨークまでの約1300kmを走破するなど、その性能と耐久性を証明するための挑戦を続け、自動車の実用性に懐疑的な当時の人々の考えを変えていった。
フォードが自身のクルマの品質を証明するためのシンプルで分かりやすい方法は、このウィントンを凌駕することであった。
1901年、フォードが設計・製作した26馬力のレーサーは最大のライバル、ウィントンのトラブルにも助けられレースで初優勝を遂げる。その反響は大きく、この成功を見た出資者らがヘンリー・フォードをチーフ・エンジニアとして招聘し、その名も「ヘンリー・フォード・カンパニー」を新たに設立。しかしここでもフォードは自身のものづくりの姿勢と組織の経営方針との反りが合わず、離脱してしまう。そして1903年、ついにフォードは自ら「フォード・モーター・カンパニー」を設立するに至った。この1903年をもって現在のフォードの創立年とされている。
ちなみにフォードが去った「ヘンリー・フォード・カンパニー」は後に「キャデラック」へと社名変更し、現在ではGMの高級車部門として現在に至っている。