ドライバーとチューナーの奮起で1300ccクラス王座に登り詰める
F56Aを名乗る、新開発された5速のサーボ型シンクロ機構が組み込まれたトランスミッションの大きな特徴は、5速がオーバートップではなく減速比1.000のトップとされていたこと。1速の減速比は4速MTと共通の3.757でしたから、3.757から1.000を4つのギヤ比で分割するのか5つのギヤ比で分割するのかの違い、つまり1速から5速までの減速比がクロスレシオの設定となっていました。
これはエンジン回転の中でトルクフルな回転域をうまく使いきるには有効な手段(機構)でした。さらに通常のトランスミッションは、左上に1速がありその下が2速。1速の右隣が3速でその下が4速。4速の右にバックギヤがあり、5速の場合は3速の右隣にシフトゲートが設けられるのが一般的でしたが、GX-5のF56A型トランスミッションでは、通常では1速がある左上にバックギヤがあり、1速は左下に。
バックギヤの右隣に2速がありその下に3速。2速の右隣に4速があり、その下に5速、というシフトゲートが配置されていました。このシフトパターンはヒューランド製のレース用トランスミッションのシフト配置と同じことから“ヒューランド・タイプ”や“レーシング・タイプ”と呼ばれていました。また通常はロー(1速)がある左上にバック(ギヤ)があることから“ローバック”とも呼ばれました。さらに、5速の変速比が1.000だったことで“直結5速ミッション”の呼び方も一般的でした。
1960年代終わりから1970年にかけて、1300cc以下のツーリングカーレースでは、トヨタのカローラ/パブリカ連合軍が猛威を奮っていました。1970年の1月に登場したサニー1200(2代目のB110型系)は、これに一矢報いんとチューナーやドライバーが奮闘を続けていましたが、1970年の11月に筑波サーキットで開催されたレースで鈴木誠一選手がドライブしたサニーが、カローラ/パブリカ連合軍を打ち破って初優勝を飾ったあたりから勢力図が変わっていきました。
そしてGT-5が登場した1972年あたりからはサニーが天下を取るようになっていきます。トヨタは1973年にパブリカの後継モデル、スターレットに、レースオプションのツインカム16バルブヘッドを組み込んだ3K-Rエンジンを搭載して投入。185psのハイパワーを武器に優勝をもぎ取ることになりましたが、日産系の有力チューナーも奮起します。
ベースモデルで約700kgの軽量ボディに加え、エンジンも極限までチューニング。A12型エンジンは排気量を1300ccにまで引き上げて、最終的には170psを超えるハイパワーを絞り出すことに成功。また10000rpmを超える最高回転数も可能にして、スターレットを駆逐することになりました。
その後、富士のマイナーツーリング(MT)レースは事実上、サニー(KB110)のワンメイクとなりながらも多くのファンに支持されて人気レースシリーズとなりました。1973年の5月にはフルモデルチェンジを受けてサニーは3代目のB210型系に移行しますが、ボディが大型化し車両重量も重くなったことで、レース関係者の多くが、この新型サニーでのレース参戦を避け、旧型となったB110型系サニーでの参戦を続けていました。
B110型系と基本設計を同じくするB120型サニー・トラックの生産が続いている、との理由から日産が“民意”に応える格好でB110型系のホモロゲーション(車両公認)延長を申請し、B110型系のレーシングヒストリーはさらに継続。その延長されたホモロゲーションも1982年の年末にはとうとう公認切れを迎えることになり、1983年には隔世後継としてB310型系にバトンを渡し、B110型系はサーキットから姿を消しています。