グループA規格となったことで日本車メーカーも数多く参戦
世界の公道に流布していった三菱の名車、それが「ランサーエボリューション」でした。1987年、世界ラリー選手権がグループA車両、すなわち年間生産台数が5000台以上(1993年より2500台以上)であると認められた市販車をベースに作られた競技車によって戦われるようになりました。
以後、世界タイトルの争奪に向け、日本からマツダ、トヨタ、三菱、日産、スバル、スズキと、多くの自動車メーカーがシリーズ参戦するようになっていきます。今回は、国内外にいまも多くのファンをもつ、三菱ランサーエボリューションのWRC参戦の歴史を振り返ります。
ランエボの前は規定に合致させたギャランで猛威を振るう
10数カ国を転戦する世界ラリー選手権(WRC)。人々の生活により近しい公道などを競技舞台にした厳しいモータースポーツの戦いの場では、まずは参戦実績あるヨーロッパの自動車メーカーが、人気を博するさまざまな名車を投入してきました。
なかでもグループA時代の初期は、ランチア「デルタHF」の独壇場ともいえる強さでした。しかし、世界に冠たる自動車産業立国となっていった日本のクルマは、このグループAの時代に、強豪ランチアを撃ち破ってゆくとともに、続々と世界タイトルをものにしていきます。開発技術も秀でている日本製の自動車の素晴らしさを証明していったのです。
その流れのなかで、1992年に市販が開始されたランサーエボリューションは、ブランド展開が特異な名車でした。「エボテン」と呼ばれる最終型「ランサーエボリューションX」まで、じつに23年にわたって進化を続け、2015年4月に限定発売された特別仕様車「ファイナルエディション」の発売をもって生産を終了しました。
グループBというマンモス的ラリーマシンの時代に、アウディ「クワトロ」が持ち込んだ4WD機構が、エンジン性能を無駄なくトラクションコントロールするためには必須に。しかし、激しく高性能化したグループB競技車による事故が発生するようになると、主催者FIAは次シーズンからはグループA車両で開催すると表明。急遽規則が変更されたことでWRC参戦を計画するメーカーチームには、大量生産の4WD車があるかないか、そしてどう対処するかなどの苦慮が始まったのです。
三菱は1987年10月に生産が始まった「ギャランVR-4」を、このグループA競技車に合致させていきます。4輪操舵などの最先端技術を盛り込み、動力性能はもちろん高度な操縦安定性、制動性能を持つフルタイム4WD車として登場したVR-4は、1988年のWRC最終戦、RACラリーで当時トップドライバーであるアリ・バタネンの手によりデビュー戦を迎え、早くもトップ争いを展開します。
翌1989年のフィンランド1000湖ラリーで、若手のミカエル・エリクソンが初優勝を遂げ、その後1992年までWRCで通算6勝。篠塚建次郎が日本人初のWRC優勝となるアイボリーコーストラリー優勝を、1991年に遂げています。
このあと、ギャランはゴージャス路線維持のなかでモデルチェンジを迎えることとなり、戦闘力を追求するため、よりコンパクトサイズで引き締まったランサーエボリューションにバトンタッチとなったのでした。