日産を本気にさせたポルシェの存在
1960年代に、国内レースで活躍した日産R380の原点は、プリンスR380である。
プリンス自動車工業は、スカイラインで第2回日本グランプリに出場し、1.5Lエンジンのツーリングカーレースで優勝を飾った。だが、GTレースではポルシェ904に叶わなかった。それでも、グロリアの2L直列6気筒エンジンを搭載したスカイラインGTが、一時的に904の前を走ったことは語り継がれ、そののち日産車となってからのスカイラインで、レースで勝つことを目的としたGT-Rの誕生につながる。
とはいえ、レースにも長けたポルシェ904に対抗するため開発されたのが、プリンスR380であった。
エンジンは、排気量2Lの直列6気筒で、スカイラインGTに搭載されたグロリアのエンジンを基にしたが、4バルブDOHCに改良され、レース専用であった。最高出力は200psである。今日からすると、それほど高性能と感じにくいかもしれないが、R380の重量はわずか620kgであり、パワー・ウエイト・レシオは3.1となる。
ちなみに、いまのポルシェ911カレラS(992型/マニュアルシフト)は、450psだが、車両重量が1480kgなので、パワー・ウエイト・レシオは3.2となる。ポルシェは量産車のままでもサーキットを走れる能力を持ち、それは1960年代の904も同様だった。904のエンジンは180psであり、当時のプリンスR380の性能は、低かったわけではない。
ブラバム製のフレームを参考にして独自シャシーを開発
最初の1台は試作的な開発で、車体は英国のブラバム製フレームを使っていた。ブラバムとは、1969~1970年にF1で世界チャンピオンとなったオーストラリア人のジャック・ブラバムが創立したレーシングカー製造会社で、奇はてらわないが正統派の設計で勝負できる性能が特徴だった。R380の開発段階で選ぶには最適な車種といえた。その経験を基に、自社製フレームを使うR380が製作され、1966年に開催された第3回日本グランプリで優勝するのである。
そのときの競合はポルシェ906だった。906が個人的なレースチームでの参戦であったのに対し、R380はプリンスの企業チームとしての参戦で、給油作業も迅速に行い、1~2位の成績を得た。3位はトヨタ2000GTで、2年前の第2回日本グランプリでプリンスが2000GTで味わったように、市販車でのレース参戦の限界を知り、トヨタ7の開発につながることになる。
1966年には一方で、プリンスは日産自動車と合併し、以後、日産R380と車名を変更することになる。1967年の第4回日本グランプリは、2~4位に日産R380が入ったものの、優勝は個人出場した生沢 徹のポルシェ906だった。これをきっかけに、R381へ進展することになる。それでも、翌1968年の第5回日本グランプリでは、R381が出場して優勝するが、R380も3位に入り、R380の潜在能力の高さを示すことになった。ちなみにこの年はトヨタ7が出走したが、8位に終わっている。
のちに、初代スカイラインGT-RやフェアレディZ432には、R380と同様の2L直列6気筒4バルブDOHCのガソリンエンジンが搭載され、R380の性能を市販車向けに抑えた仕様と語られたが、実際には諸元こそ似ているが、市販車用エンジンとして別であると伝えられる。