多彩なラインアップの頂点がAMGだった
以前初代モデルを紹介した三菱のフラッグシップ・サルーン、デボネア。初のモデルチェンジを受けて1986年8月に登場した2代目は、V6エンジンをフロントに横置きマウントした前輪駆動にコンバートされていたものの、フォーマルな4ドアセダンとして登場していました。
ただし、ライバルにはハードトップもラインアップされていましたが、デボネアは4ドアセダンの1車型だったので、フォーマルだけでなくパーソナルなユーザー層にも対応する必要から各種グレードが投入されました。その最大のものはAMG仕様でした。
三社の思惑が一致してモデルチェンジを実施
初代デボネアは、1963年の東京モーターショーでお披露目され、翌1964年に製造販売が開始されています。敗戦後にGHQによって3社に分割された三菱重工業が、1964年の6月にふたたび合併し、新生の三菱重工業としてスタートした直後に発売。軽乗用車のミニカから大衆車のコルト600、小型乗用車のコルト1000に加えて2Lクラスのフラッグシップモデルを投入することで、フルラインアップを完成させる重要なミッションを受けての誕生でした。
まだトヨタ・クラウンにも2ドアハードトップが誕生する前で、クラウンや日産セドリック、プリンス・グロリア、そしていすゞベレルなどライバルも、すべて4ドアセダンの1車型です。こうしたライバルのなかで、ベレルは1967年に販売中止となりましたが、クラウンに2ドアハードトップが追加されると、1966年にプリンスを吸収合併した日産は、1972年のフルモデルチェンジでセドリックとグロリアを共通ボディで開発。同時に2ドアハードップを誕生させています。
こうしたライバルの活動を、指をくわえてみていた格好となったデボネアは、バリエーションの追加やモデルチェンジのタイミングを失ってしまい、長期にわたり初代モデルを細々と生産継続せざるを得ませんでした。もちろん、三菱(1970年には三菱重工業の一事業部門から独立分社し三菱自動車工業が誕生していました)も次期モデルの必要性は十分に感じていて、度々、開発をスタートさせたとも伝えられましたが、それが本格化する前に頓挫してしまうケースが何度か繰り返されたようです。
しかし、遂にデボネアの次期モデル=2代目モデルが登場することになったのです。なかなか実現できなかったフルモデルチェンジが可能になったのは、ふたつの理由が考えられています。三菱としては、次期フラッグシップ・サルーンは前輪駆動と考えていましたから、搭載するエンジンは横置きのV6エンジンしか考えられなかったようですが、当時三菱にはV6エンジンの手持ちがありませんでした。
ギャランΣ/エテルナΣなどに搭載する展開案も考えられましたが、それにしてもV6エンジンを新規に開発するのは荷が重かったのでしょう。ところが当時提携関係にあったクライスラーからV6エンジンを大量に購入したいとの申し入れがあり(コンペによる入札制だったとも)、これに応じることで開発コストの償却も見えてきたことが大きな理由となったようです。
またやはり提携関係にあった韓国の現代自動車(ヒョンデ)には「1988年に開催されるソウル・オリンピックまでに“自国製”の高級車が欲しい」との思いがあったようです。韓国内で屈指の現代財閥(現代グループ)をバックにした韓国のトップメーカーとしては、国内で初開催となるオリンピックにおいてVIPの送迎用に海外製の車両を使用する訳にはいかなかったのでしょう。
その時点ではフラッグシップ・サルーンを自ら開発する技術力もなかったことから、三菱に頼らざるを得なかったと推察されています。ともかくこうしたバックグラウンドの状況が整って、2代目デボネアの開発計画は正式にスタート。1986年7月に登場の運びとなりました。