各地で大小の「スーパーカーショー」が盛り上がった
朝から晩までスーパーカーに囲まれながら生活することになった子どもたちのスーパーカー熱はどんどん高まり、後楽園球場や晴海貿易センターを会場とした大々的な「スーパーカーショー」がたくさん開催されるまでに至った。それと並行し、百貨店の駐車場などでも地方巡業的な小さなスーパーカーショーが盛んに行われ、1971年生まれの筆者が一番最初に本物を見ることができたスーパーカーは、往時に家族でよく行っていた吉川百貨店(東京都町田市にあった)で子どもたちに披露された、ブルーのランボルギーニ「カウンタックLP400」であった。
戦後生まれのわが父親は北海道出身だが、仕事で内地に出てきてからは富士スピードウェイなどでレースを観戦していたそうで、510型の日産「ブルーバード」を愛用する根っからのクルマ好きであった。そういったこともあり、吉川百貨店(その昔、わが家は週末になるとオヤジが運転する510型/610型ブルーバードで吉川百貨店へと出かけ、店内のレストランでクリームソーダを注文するのが恒例行事となっていた)にカウンタックLP400が展示されるという情報をどこからともなく入手し、わざわざ筆者と弟を連れて行ってくれたのである。オヤジはスーパーカーグッズをたくさん買ってくれたので、それらは今でも大切に保管している。
70年代末、ブルートレインブームにバトンタッチ
1978年には鈴鹿サーキットでスーパーカーレースまで実施されたが、九九を覚えるかのごとく必死に各車のスペックを暗記し、カウンタックとBBの最高速対決に一喜一憂して、スーパーカー販売ショップ店頭での撮影にヒートアップし過ぎて強面のスタッフから水をかけられたりしていた子どもたちの興味が、同年の終わり頃から徐々にスーパーカーとは異なる方向へ向いていった。カメラを片手にスーパーカーを追い続けていた少年たちが、ブルートレインに代表される鉄道の撮影に心血を注ぐようになったのだ。
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自然消滅するかたちで、いつしか終焉を迎えたスーパーカーブームであったが、その名残りは40年以上が経過した今でもそこかしこに残っている。
現在はスマホさえあれば万事OKといった感じだが、かつては自動車雑誌やスーパーカーカードのような実在する物質から情報を得るしかなかった。そのため、誰もがモノに固執し、余計に盛り上がったと言える。
スーパーカーブームにインスパイアされた人々によるアクティブなカーライフ、そして一大ブームを生んだ各種アイテムは、日本固有の自動車文化の副産物(遺産)として今後も注目されていくだろう。